冬の語源は「冷ゆ」がふゆ、寒さが威力を「振るう」がふゆ、寒さに震うがふゆ…などの説があります。その他には「殖ゆ」からとの説もあるのですが、すべてが枯れてしまう冬にどうして?と思ってしまいます。いったい何が殖えるのでしょう。これは神が冬籠りして神霊の威力を復活させるためだというのです。いわゆる「ミタマノフユ」。冬の祭は神の威力を増強するために行う、呪術的な意味が込められているといわれるようです。 そういえば春日若宮おん祭も冬の行事です。寒い冬のさなかに力を殖やすというのは納得できます。人生でも不遇の時にこそ力をつける、なんていいますもの。冷たい大気の中で一見枯れているような枝先には春へ向かって新芽をしっかり蓄えているのでしょうし、霜に覆われた大地にも命の根っこはちゃんと生きていて春には芽吹いてきます。厳しい季節を乗り越えてこそ、美しい花にも出会える、そう思って忍び寄る冬将軍の足音に耳をそばだててみましょうか。 さて、そんな冬の空の主人公は何といってもオリオン座。オレンジ色の一等星ペテルギウスは狩人オリオンの右肩、青白く見える一等星リゲルは左足、その間に見える三ツ星はベルトですね。オリオンは夏の星座となったサソリに刺され、夜空に登ったといわれています。オリオン座のペテルギウス、おおい脱座のシリウス、こいぬ座のプロキオンを結ぶとこれが冬の大三角形になります。地球から500光年という距離にあるペテルギウスが8.6光年、11光年にあるシリウスやプロキオンと同じように明るく見えるのは太陽より500倍も大きい赤色巨星だからだそうです。そして、ペテルギウスはそのうちにエネルギーバランスを崩して星全体が飛び散る大爆発を起こすだろうといわれています。それは10年後なのか一万年後かわからないけれど天文学的には近い将来と表現されるとか。星の中心は爆発の反作用で高密度の天体ができ、ひかりまでも吸い込んでしまうブラックホールとなるのです。その時は空がどんなことになるのでしょう。そして地球への影響はあるのでしょうか。 そういえば、11月に彗星探査機ロゼッタがフィラエを切り離して彗星に着陸したとのニュースが届きました。地球を離れてから10年以上もの旅をしてようやく着いたのです。箒星として親しまれている彗星の謎がこれで少しは解明されると期待されています。太陽系の成立を知る重要な一歩が2014年の秋に記されたのですね。壮大な宇宙の歴史から地球のどんなことが分かるのでしょう。楽しみなことです。寒くてもたまには空を見上げて悠久の時間を味わってみるのもいいかもしれません。 千年も昔に書かれた「枕草子」で清少納言は「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばい星すこしをかし。尾だになからましかば、まいて」と星のことを書いています。“星として挙げれば、すばる。彦星。宵の明星。流れ星はちょっとおもしろいわね。尾を引いて流れなければ、もっといいわ」といったところでしょうか。 よばい星は流れ星といわれていますが、尾を引くというと彗星のようです。よばいとは夜這い。女のもとを訪れる男を星になぞっているのでしょう。それに尾がなければもっといいのに、というのは派手にやって来ないでね、という意味にもとれそうです。来てくれるのなら、そっと静かにね、と誰かにそれとなく注意しているのか、夜這いの美学を教えているのか。面白いですね。「寒星や神の算盤ただひそか」(中村草田男)
空を見上げて冷えた身体に嬉しいのはなんといっても熱々の食事。熱々のご馳走といえば代表はやはり鍋料理です。高級なフグからタラ、牡蠣、豚チゲ、湯豆腐、寄せ鍋。寒ブリの季節にはブリしゃぶなどなど。寒波が来ると、海の魚たちは身体も脂肪と栄養でたっぷりと太ってきます。鍋だけでなく刺身にも舌鼓の季節です。漁獲量が減ったクロマグロは高根の花としてもヒラメやマコガレイ、イシガレイなど。白身の魚は燗冷ましで梅干しを煮詰めて作ったタレでいただくと箸が止まらなくなりそう。鍋に最適な魚にアンコウもありました。アンコウはまな板ではなく吊るし切りされますね。フォアグラよりも美味しいという人も多いのがアンコウの胆。フグの白子やタラの白子など冬ならではの味覚が出てきます。わざわざ揃えなくても、あり合わせの材料を入れてつくる家庭の味もこの季節ならではです。熱々が何よりのご馳走なのですから。以前、若い男性がポパイ鍋を作ってくれました。鍋に水と昆布を入れ、沸騰したら、豚肉とほうれん草を重ねていきます。それこそ山のように積み、鍋の蓋をして待つことしばし。ほうれん草がすっかり鍋の中に納まってしまうといよいよ食べごろ。ポン酢でも鍋の中に味付けをしてもいいのです。そして最後は中華麺で仕上げます。とても美味しかったので以後定番の鍋となりました。そうそう、野菜もこの時期美味しく育ちます。霜の降りた白菜の甘さ。ほうれん草も味が濃くなります。スーパーでは一年中手に入りますが、旬の野菜は栄養価も高く、値段は安いというメリットがありますから、見逃す手はありません。蕪、大根、ネギ、ゴボウといった根菜は身体を温めるといわれています。どっさり食べて元気に冬を乗り切っていきましょう。
以前、奈良の冬の観光キャンペーンに「奈良の素顔を見える時」だったか「奈良が素顔を見せる時」だったか、そんなコピーがありました。なるほど!と感心しました。そうですね。冬、盆地である奈良は足元から寒さがはいあがってくる感じです。しっかりと寒いのです。正倉院展が終わり、紅葉が終わり、木枯らしが吹くとそれまでの賑わいは潮が引くように静かになります。そう、そんな時に奈良の素顔が見えるのですね。 もう、10年も前になりますが、大峯奥駈道が世界遺産になるというので吉野を取材したことがあります。冬のさなか、2月のことだったと記憶しています。山の道には雪が残り、風がびゅーっと吹いて耳が痛いほどでした。翌日の朝、金峯山寺の朝の勤行へ行きました。冬の頼りなげな朝日が遠慮がちに射したり曇ったりしています。本堂へ入ると前夜の冷気をしっかり抱え込んで、柱も床も人を寄せ付けないようにじっと固まっているようでした。靴下の上にさらに重ねて靴下をはいたのですが、焼け石に水、というか氷にドライアイスといった方がいいくらい。立っていると足の感覚が無くなりそうでした。そんな中、僧侶の入堂です。本堂には私たち以外誰もいません。それでも粛々として勤行は行われます。足踏みするわけにもいかず、コートにくるまって、本堂の端に座っていました。僧侶たちの読経の声が響きます。これまで、何かの行事の時にしか来ていませんでしたから、いつも堂内には人がいて、とても賑やかだったのに、今はカメラマンと私の二人だけ。その時、当たり前のことですが、読経はみ仏に為のものであったと胸を突かれる思いでした。参列者のためでは決してなかったのです。もし、私たちがいなくても変わることなく朝の勤行が行われている、そのことにしみじみ感動したのでした。人の存在には関係なく、やるべきことを行う、ただそれだけのことに胸が締め付けられるほど圧倒されました。 勤行が終わり、かじかんだ足をさすりながら外へ出ると外の方がよほど暖かいのです。弱いながらも日差しは日差し。冬の太陽だってさすがです。 冬のお寺といって思い出すのはこの時のこと。それから、真冬のお寺を折々に訪ねるようになりました。誰もいなかったり、ほんの数人だったりしますが、み仏も境内も素顔を見せてくれているような気がします。20世紀を代表する写真家・土門拳は何度も室生寺の冬を訪れ、作品として残しています。車椅子でも室生寺の雪の写真を撮るためにいらしたとか。冬にはなにか力があるのでしょうか。それとも人を試しているのでしょうか。暖かい部屋にこもってぬくぬくと過ごしたい季節ですが、思い切って出かけると新鮮な発見があるかも知れません。奈良のお寺はなかなか深いようですよ。