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第12話 伝説の地を行く
杉林を行く
杉林を行く

大峯奥駈もいよいよ最終章
大峯奥駈もいよいよ最終章。速玉大社への参詣を済ませ、神倉神社へ。ここは速玉大社の境外摂社で、神倉山にあります。源頼朝の寄進と伝えられる538段の急な石段を上ると“ごとびき岩”と呼ばれる巨岩が周囲を威圧するようにどっかと座り、この根元からは銅鐸などの破片がたくさん出土しました。この岩は神が鎮座する岩座として信仰を集めた原始的な巨岩崇拝の名残り。
「古事記」や「日本書紀」によれば、神武天皇が東征の時に登った天磐盾〔あまのいわたて〕の山にあたるとか。“ごとびき”とは大きな蛙のことで、下から見上げると蛙が座た姿に似ているといわれます。
新宮市の大通りを泥にまみれた山伏の一行が歩いて行きます。普通の人々の生活が新鮮に見えるようです。
新宮から阿須賀〔あすか〕神社へ向います。広い境内の神社には桧皮葺き丹塗りの社殿や社務所、玉垣、鈴門などが建ち並んで整った景観です。社殿の背後にある蓬莱山は高さ約40メートルで除福が不老長寿の薬草を採取した所と伝えられています。
除福とは中国秦始皇帝に方士として仕えていた人です。方士とは仙術者のこと。紀元前3世紀頃、皇帝の命を受け、不老長寿の霊薬を求めて渡来したと伝えられています。除福は大船85隻に数千の童男、童女、金銀珠玉、五穀、器財を乗せて蓬莱という島へ向ったのです。長い航海の後に着いたのが熊野灘、阿須賀神社あたりだったとか。神社背後の蓬莱山には除福が採取したという天台烏薬と呼ばれる薬草が生育しています。除福は霊薬を手に入れた後も帰らず、土地の人々に耕作や捕鯨術などを教え、天寿を全うしたと伝承されています。平成6年、墓の周囲は除福公園として整備され、中国風楼門も建てられ、管理等には除福に関する資料が展示されています。

補陀洛山寺への道
 阿須賀神社から補陀洛山寺へは浜王子跡を経て浜辺の道を歩きます。浜王子とは熊野参詣道に祀られた九九王子のひとつ。王子というのは御子神のことです。神が貴い子どもの姿で現れたもの。住宅地の一角に小さな神社として祀られていたのは浜王子の跡でした。

「五大尊岳」の写真

 松林を抜けると王子浜。海亀が産卵にくることで知られる美しい浜辺です。コンクリートの堤防沿いながら、山中を歩き通した山伏が浜辺を歩くのですから、その感慨はどんなものでしょうか。山中が異界なら海もまた異界。修行の果ての無さを感じるのでしょうか、それとも遥かな憧れに胸躍らせるのでしょうか。
森の中に続く高野坂には石畳が残り、林間からは海が見えます。この浜は御手洗海岸と呼ばれますが、熊野参りの人々の身を清める場だったからといいます。
しばらく国道42号線を歩くことになりますが、車が行き交うアスファルトの道は山中よりも疲れるようです。照り返し、排気ガスは気持ちも挫いてしまいそう。
国道をそれて補陀洛山寺へ。縁起書によると第5代孝昭天皇(在位BC.475〜393)の時代、銅鉱7人と熊野浦に漂着したインド僧裸行の開山。裸行は、那智川を遡って那智の滝を発見、そこで行をしたそうです。滝つぼから千手観音の示現を見て一帯を観音信仰の霊場にしたのだと伝えられています。
斉明天皇(在位655〜661)の発願以降、歴代天皇の勅願所となり、文武天皇(在位687〜707)からは「日本第一補陀洛山寺」の勅額が贈られたそうです。宸筆といわれる額が、大悲殿(本堂)のなげしに掲げられています。
この寺は“補陀落渡海”の住職を出した寺院として知られています。補陀落渡海とは僧とその同行者が観世音菩薩の補陀洛浄土とされる南インド洋上をめざして渡海することです。補陀洛山寺の住職にのみ勅許が与えられ、渡海入定の時には「渡海・・上人」の僧位が贈られました。貞観(859〜877)の頃からこの信仰がさかんになり、死期を悟った住職はわずかな食糧を屋形だけの小船に積み、戸を外から釘付けにされて船出したのです。開山の裸行も渡海入定して龍樹菩薩になったと伝えられています。
「熊野年代記」によると補陀落渡海は貞観10年(868)の慶龍に始まり、平安期3回、室町期10回、江戸期6回を記録しているそうです。寺には享禄4年(1531)に渡海した祐信の棟札と渡海に使われた舟の部材が残されています。
渡海する僧たちのことを思うと胸に迫るものがありますが、海の彼方には浄土があるという信仰があればこそのことだったのでしょう。山の向こう、海の向こうへの憧れは、遠い祖先からの記憶によるものかも知れません。

那智の滝から熊野本宮大社へ
 那智川に沿った道から分かれ、細い谷間を行けばやがて荷坂峠。ここに尼将軍供養塔があります。尼将軍とは源頼朝の正室北条政子のこと。将軍夫妻の熊野権現への信仰がうかがえるところです。市野々王子跡を経て大門坂へ向います。延長600メートルの大門坂は苔むした石畳が130メートルという標高差をのぼっているのです。老杉群の中に続く道は鬱蒼として、山の気に満ちています。登りきると今度は下り。石段を下りきると轟々として鳴る那智の滝

那智の滝

那智山中には烏帽子山〔えぼしやま〕、大雲取山〔おおくもとりやま〕、船見〔ふなみ〕峠、妙法山を源流とする4本の渓流があり、その渓流にはたくさんの滝があります。一ノ滝、二ノ滝、三ノ滝、曽以〔そい〕ノ滝(文覚ノ滝)、波津以〔はづい〕ノ滝など48にのぼりこれらは「那智四八滝」と呼ばれ、那智の滝とは本来この総称です。一般的に那智の滝といわれるのはこの中の一ノ滝のこと。
杉や檜などの原始林に囲まれた滝は石英粗面岩の断崖を一気に落ちています。高さ133メートル、幅13メートル、滝つぼの深さは10メートルにも及ぶそうです。その姿は荘厳なまでの美しさ。古代から滝を神として信仰してきたのも納得です。今でも滝のしぶきを受けると延命長寿になると信じられています。
この滝をご神体とするのが飛瀧〔ひろう〕神社。社伝によると神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸した時、光が那智山に輝いて軍を導いたそうです。光の元を探ると深い滝つぼの中に沈んでいきました。天皇はこれに感じ入り、滝をご神体として祀ったのが起源と伝えます。
その後、役行者がこの滝を山岳修行の道場中、第一の霊場と定めたのです。千手観音を本地仏としたことから、飛瀧権現とも呼ばれ、参詣者や修験者が続き、ついには滝籠〔たきこもり〕の荒行をする人も出現しました。

胴切坂
円座石
本宮仮参拝の写真
小口

この先達が那智滝本六十六人衆と呼ばれる修験者です。中でも花山法皇の文覚滝籠は有名で一千日の滝籠をしたと伝えられます。
那智大滝から参道を登ると青岩渡寺。西国三十三ヶ所第一番札所として有名です。寺伝によると、仁徳天皇(313〜399)の頃、インドから熊野浦に漂着した裸行が那智の大滝から感得した金像8寸(約26センチ)の如意輪観音像を安置して開いたのが起源といいます。裸行が補陀落渡海の後、推古天皇の勅願で堂宇を建立したと伝えられます。平安中期以降、さかんになった熊野詣ではその本拠地として栄えました。
大雲取、胴切坂を過ぎ、“百間ぐら”へ。ここからは熊野三千六百峯のはるかに熊野川がかすかに見えるそうです。はるばると来た道を思えば万感胸に迫ることでしょう。
いよいよ熊野本宮大社です。音無川左岸の高台に鎮まる大社は全国にある熊野神社の総本宮。創建の年代ははっきりしませんが、神代の昔、家津美御子〔けつみみこ〕(須佐之男尊〔すさのおのみこと〕)が熊野川上流の櫟〔いちい〕の木に天降り、崇神天皇(BC97〜30)の時代に社伝が造営されたといいます。その後、修験者の根拠地として栄えました。熊野の地は阿弥陀の浄土であり、ここに参詣すれば極楽往生がかなうという信仰が生まれ、宇多法皇をはじめとする熊野御幸は院政期から鎌倉中期までの間で100にも及びました。
ついに熊野本宮へと至った修験者たちはここで正式参拝を済ませます。11日間、自分の足だけをたよりに歩き通した人々へ出迎えの拍手が鳴ります。
神前からご神水と火が大斎場へ運ばれ、神仏習合の採灯護摩が行われます。護摩の煙に乗ってさまざまな思いが天へと昇っていくのでしょうか。本当にご無事で何よりでした。お帰りなさい。

「五大尊岳」の写真

毎年、奥駈道を修験者と一緒に歩きながら写真を撮り続ける写真家・松井良浩。同行撮影という過酷な道程に松井氏を駆り立てるものとは?全12話に込められた松井氏の畢生の取り組みを通して、長く厳しい修行と最大の修行は修業後の生活にあるといわれる所以の一端を感じ取れるかもしれません。

世界遺産を行く〜大峯祈りの道〜
松井良浩写真展
/富士フイルムフォトサロン(大阪スペース2)
2007年4月13日(金)〜4月19日(木)
http://fujifilm.jp/photosalon/
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