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第11話 玉置山から新宮市へ
杉林を行く
杉林を行く
杉林を行く
玉置山
吉野郡十津川村玉置山。樹齢3000年という数百本もの杉の巨木が堂々と天を突く山には雄渾な生命の息吹が溢れ、ここが天と地をつなぐ神話の場であると素直にうなづけます。 標高1076メートルの玉置山9合目には崇神天皇時代(BC97〜30)の創建と伝えられる玉置神社が建っています。
不動
神仏習合の時代には大峰修験道の本拠となり、熊野三山の奥の院として朝野の崇敬を集めていました。いかにも古社といったたたずまいの神社は懸造・入母屋造で文化元年(1804)の建築です。社宝には宇治川の先陣争いで名高い佐々木高綱が戦勝祈願として奉納したという、平安時代応保3年(1163)の鋳出し銘のある梵鐘や後白河法皇寄進と伝える宝篋印塔、和泉式部供養塔の石地蔵など古い歴史を物語るさまざまなものが残されています。
  本殿から山道を歩くと末社である玉石社があります。3本の杉の巨木がご神体の丸い石をまもるように立っています。丸い玉が行かれているところから玉置と呼ばれるようになったとも言われています。
道案内
道案内
周囲には白い小さな石がたくさん供えられ、文字通りの玉置。 ここは役行者や空海が如意宝珠を埋めたという伝説の地で、大峰修験道の奥駈道を通る山伏たちも玉置神社より先に玉石社へ参拝するそうです。神話では神武東征の折、兵を休めたのが玉置山頂ということになっています。重なり合って熊野の山並みに連なっていく十津川の山。熊野から上陸した神武天皇の一行と出会いそうな森厳極まる雰囲気は奥駈の人々をどう励ますのでしょうか。
「五大尊岳」の写真
五大尊岳
吹越山へ向かう
  玉置神社を出立し、本宮辻、大森山の手前にある旧篠尾辻を過ぎ、大森山山頂へ。ここでも勤行は欠かせません。大森山を越えると切畑辻や七色辻とも呼ばれる現在の篠尾辻、やがて五大尊岳に到着です。ここでもやはり勤行。金剛多和大黒天岳を経て吹越山へ向かいます。吹越宿は宿地跡に行者堂が祀られ、かつては本宮から吉野を目指す順峰修行の折、初めて参加する新客は峰入り法度の条目を読み聞かされといいます。緊張した新客たちは身の引き締まる思いで耳を傾けたことでしょう。
「熊野川を見る」の写真
間近に見る本宮の地
槍ヶ岳
 吹越宿から七越峯を駈け、備崎で熊野川を渡ります。吉野川で水垢離をして奥駈けを果たし、熊野川を渡るというのは修験者にとって格別の思いがあるようです。しかし、雨で増水すると自分の足で渡ることはできません。それだけに一層想いが募るようです。
大斎原を経て本宮への仮参拝を行います。大斎原は熊野川と音無川の合流点にある中州でこんもりとした森になっています。ここは熊野本宮大社の旧社地。明治22年(1889)の大洪水以前まではここに大社の社殿が鎮座していました。明治24年に本宮大社の主殿である上四社が現在の地に移転したため、広い境内は石祠二殿があるだけです。春になると100本ほどの桜が咲き、町の人々にとっては格好の花見散策地となっています。
本宮仮参拝の写真
本宮仮参拝
  音無川左岸の高台にあるのが熊野本宮大社。熊野三山のひとつで全国約3100社の熊野神社総本宮として有名です。創建年代は明確ではありませんが、神代の頃、家津美御子[けつみみこ]大神(須佐之[すさの]男尊[おのみこと])が熊野川上流にあった櫟木[いちいのき]に天降り、崇神天皇の時代に社殿を造営して還られたとつたえられます。その後、本字垂迹説が称えられるようになると、密教に象徴する仏教呪術隆盛につれて、修験者の本拠地として栄ました。祭神に仏名があるのはそのためで本宮の本地仏は阿弥陀如来とされ、熊野の地は阿弥陀の浄土であり、ここへお参りすれば極楽往生が叶うという熱烈な信仰が生まれました。中でも宇多法皇をはじめとする熊野行幸は有名で院政期から鎌倉中期までの190年間に100にも及ぶ行幸があったそうです。熊野信仰は武士や庶民層にも広がり、“蟻の熊野詣”といわれるほどの人気だったようです。
  最終目的地は本宮なのですが、今回は新宮を経て本宮へという昔ながらのコースを歩きますからここでは仮参拝することにしました。
川下りの写真
川下り
新宮へ
 仮参拝を終え、船乗り場の志古まで熊の古道を峠越え。古くは新宮、那智への参拝は本宮から川を下ったようです。ただし船ではなく筏だったとか。熊野川河口近くには熊野速玉大社があります。創建年代は明らかではありませんが神代、熊野速玉大神・夫須美大神・家津美御子の熊野神が各地を遍歴した後、紀州の神蔵峯[かみくらみね](南にある神倉山)に天降って鎮座されました。その後、家津美御子だけが熊野上流の本宮に降臨されたといいます。景行天皇の代(71〜130)、現在地に新しく社殿を造営して阿須賀社から結御子速玉之男神(夫須美大神)を勧請されたと伝えられています。これが熊野速玉大社の草創といわれ、“新宮”の名前もここから。
神倉神社
 熊野速玉大社の境外摂社で神倉山にある神倉神社は建久4年(1193)、源頼朝が寄進したという急勾配538段の石段の上。ここは古事記や日本書紀によると神武天皇が東征の折に登った天磐盾の山にあたるそうです。神倉山は神代からの伝承を持つ山で山頂の“ごとびき岩”と呼ばれる巨岩の根元からは銅鐸の破片や祭祀用具、仏教遺物がたくさん出土しています。社殿を建てて神を祀る以前の祭祀礼拝所とした岩座にあたり、原始的な巨岩崇拝の名残をとどめる遺跡として注目を集めています。
 新宮の町は熊野速玉大社の門前町として栄え、熊野別当が居住した歴史深い町です。関が原の戦以後後に水野忠吉が新宮城を築城、水野重仲が入城して新宮は城下町として発達してきました。江戸時代は新宮港を拠点に豊富な熊野材を江戸へと送り、深川市場で覇を競ったものだといいます。新宮の町にはかつての面影がかすかに残り、訪れる修験者もひととき懐かしみながら、歩くとか。
新宮市内
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次回は「はるばると熊野本宮大社」です。
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