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今年の夏は酷い猛暑でした。お盆が過ぎたら、夕風は涼しくなるだろうという期待はすっかり裏切られ、 夜中も明け方さえ暑い日が続きました。冷夏も困りますが、あまりの暑さも辟易ですよね。
紀ノ川、吉野川の視察に行った時、私は日傘にしがみつくようにしていましたが、 男性は直射日光をそのまま浴びていらっしゃいました。日陰のないところばかりでしたから、 目も眩む日差し、焼け付く太陽、傘や帽子が無ければ大変です。 すると、雨傘ですが、と黒い大きな傘を数本、スタッフの一人が車から出してきました。 最初、結構です、と言っていた人も、折角だからと手にされました。バスに戻ってから、 「傘があんなに涼しいとは知りませんでした」と驚いていらっしゃいました。 日傘を使わない男性の素直な感想だったのです。日盛りに日傘が当たり前の私としては、 驚いている人に驚いた次第。昭和の初め頃、男性も蝙蝠傘を日傘として使っていた写真を見たことがあります。 こんなに暑くなるなら、紫外線対策としても男性用日傘が普及するかも知れませんね。
 さて、9月も随分暑く、秋の訪れが遅いとの予報ですが、季節は確実に移ろいます。 街路樹の花水木はもう青い実をしっかりつけています。 家庭菜園の胡瓜はもう実をつけなくなり、蝉は鳴き尽くして果てています。 涼は暑さの中にそっと潜んでいるようです。

10月10日の出来事

遷都1300年で賑わう奈良ですが、歴史は途切れることなく続いてさまざまな出来事が繰り広げられてきました。 都が京都へ移った古京奈良にもです。
 10月10日といえば、体育の日を思い浮かべるのは旧人類でしょうか。 1964年(昭和39)、東京オリンピックの開会式が10月10日でした。 爽やかに晴れ渡った秋空が印象的で、この日は特異日だったとか。 晴れる確率が高い日ということだったのです。 1966年(昭和44)体育の日と制定され、国民の休日になりました。 その後2000年(平成12)にハッピーマンデイ制定でこの年から10月の第二月曜が体育の日と変更、今年は11日です。
 10月10日は奈良にとっては忘れられない大きな出来事があった日です。 時は永禄10年(1567)のことでした。奈良の象徴とも言える大仏殿が炎上したのです。 その張本人として悪名をとどろかせているのが松永弾正ということになっています。

松永弾正久秀という人

 戦国時代のきょう梟ゆう雄(残忍で猛々しい勇者)といわれるのが松永弾正です。 織田信長が徳川家康に紹介する時、「人のせぬことを三つまでしおった。 まず、将軍を殺したこと、主君三好家への謀反、奈良の大仏を焼いたのだ。並の者では一つとしてできぬ」といったらしい。 江戸時代中期の「常山紀談」に書かれているといいますが、三人の対面がいつ、どこでだったのかは書かれていないようです。
 松永弾正の弾正とは弾正台の職員という意味です。弾正台というのは律令時代に作られた警察機構でしょうか。 弾正台の職員を弾正と呼んだということですが、本名の松永久秀より弾正で知られているようですし、 何だか強そうな感じもしますね。
 松永久秀の出自ははっきりしていません。近江、丹波、京都などといわれています。 松永久秀が三好長慶の配下となり、大和へ入ったのは永禄2年(1559)8月。 筒井氏を追って信貴山城へ入城、以後大和を領有したのです。 翌年からは近世城郭建築の範となる多門城の築城を始めています。 2010年は多門城築城450年の年にもあたっています。

秀麗なる多門城

 多門城は奈良と京都の堺、奈良坂の近くで、現在の若草中学校がその跡です。東には京街道、南には佐保川が流れる低い丘陵ですが、跡地に立つと若草山、春日連山を背景に東大寺大仏殿、興福寺五重塔など奈良市街が一望のもと。 信貴山城と多門城をおさえることは大和支配にとって重要なことだったことでしょう。大和の北部を支配しながら、京都への往還にも便利な絶好地だったに違いありません。もともとここは眉間寺山と呼ばれ、眉間寺という寺があったようです。 その寺を北へ移し、眉間寺山の名を多門山と変えて築城したのは、多聞天への信仰からともいわれています。 四天王のうちのひとつ、多聞天は北を守る仏ですから、奈良の北を守るにもっともふさわしい名前だったのですね。
 さて、多門城とはどんな城だったのでしょうか。宣教師ルイス・フロイスは日本へ来た印象を「日本史」に記していますが、それには言葉を尽くして賞賛しています。ルイス・デ・アルメイダという同じ宣教師の手紙を「日本史」に書き残しているのです。  ちょっと長いのですが、引用してみましょう。
「基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁を塗りたり。壁の此の如く白きは石灰に砂を混ぜず、甚だ白き特製の紙を混ずるが故なり。家及び塔は予が嘗て見たる中の最も良き瓦の種々の形あり又二指の厚さありて真黒なるものを似て覆へり。 此の如き瓦は一度葺けば四五百年も更新する必要なし。 予は六七百年の寺院の多数に於て之を見たり。 此の別荘地に入りて街路を歩行すれば其の清潔にして白きこと、恰も当日落城せしものゝ如く、 天国に入りたるの感あり。外より此城を見れば甚だ心地好く、世界の大部分に此の如き美麗なる物ありと思はれず。 入りて其宮殿を見るに人の造りたる物とは思はれず、之に付記述せんには紙二帖を要すべし。宮殿は悉く杉にて造り其匂は中に入る者を喜ばせ、又幅一プラサの緑は皆一枚板なり。壁は悉く昔の歴史を写し、絵を除き地は悉く金なり。 柱は上下約一パレモを真鍮にて巻き、又悉く金を塗り、彫刻を施して金の如く見ゆ。柱の中央には美麗なる大薔薇あり、室の内側は一枚板の如く見え、甚だ接近するも接目を認むること能はず。又地に多く技巧を用ひあれども予は之を説明すること能はず。 此等宮殿の多くの建物の中に他に比し更に精巧なる室あり。 奥行及び幅四プラザ半にして黄色なる木材を用ふ、甚だ美麗にして心地好き波紋あり。此木材は加工甚だ好く清浄なる鏡に似たり、然れども此は木材の光沢にあらず一種の漆ならんと思はれたり。 庭園及び宮庭の樹木は甚だ美麗なりといふの外なし。予は都に於て美麗なるものを多く見たれども殆ど之と比すべからず。世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ。 故に日本全国より只之を見んが為来る者多し」

 この書簡にある「塔」とは天守もしくは櫓のことで、「宮殿」とあるのは本丸にあった御殿のことではないかと推察されています。 また「日本において最も美麗なるものの一つ」「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」との賛美はよほどの驚きでこの城を見たことが分かります。 宮殿の内部は、日本と支那の歴史物語を題材にした障壁画、柱は彫刻と金製品や大きな薔薇が活けていたり、天井は格天井でいくつかの装飾、庭は清らかな美しさなど、戦闘を目的とした城とは思えない様子ですね。 松永久秀はいくつかの城を築城や改修をしていますが、「近世式城郭建築の租」と呼ばれるのは主に多聞山城のことを指しているようです。 多門櫓は近世城郭建築には必ず出てきますが、その元はここ多門城だったのですね。また、後の天守閣を思わせる四層の楼閣もここには造られていたのです。 織田信長も天正2年(1574)にここへ来ていますから、深く影響を受けたと思われます。安土城の築城は天正四年のことですから。 松永久秀はどうしてこれほどの建築センスを持つことができたのでしょう。それには松永久秀が仕えた三好長慶との関係が影響していると思われます。 三好長慶は京都を治めますが、この時に松永久秀は京都代官の任となり、弾正になります。 永禄元年(1558)細川春元と共に近江へ逃れていた将軍足利義輝は三好長慶と和して京都へ帰りますが、この時の京都は荒廃して、将軍の邸もないありさまでした。 そこで新邸造りの采配を松永久秀が振るうこととなったのです。 京都の宮大工を使っての作事は将軍の美意識や建築技術への開眼となっていったことでしょう。 しかも同時に堺の代官職にもついていました。当時の堺は自由貿易で栄え、商人たちは茶道を通して武士との交流も深めていましたから、 松永久秀も当然、その中に入り、茶道を通した美意識や駆け引きにも長けていったと考えられます。

茶人として

 松永久秀は茶人としても名の知れた武将でした。 堺との関わりが深く、『天王寺屋会記』『松屋会記』などの茶会記にも記録が残っています。 久秀が茶の湯の席に初めて確かな記録に名を記すのは、天文23年(1554)正月のこと。 亭主は堺茶道の祖として知られる武野紹鴎、客は久秀と堺の豪商今井宗久でした。 宗久は紹鴎の女婿で後に信長・秀吉の茶頭を務めたほどの人物で、 久秀は早い時期からこういった堺の有力者たちと交流があったようです。
 当時、一流茶人として認められるためには、名物茶器を所持していることが必須条件でした。 久秀も数々の名器を所持していましたが、中でも秘蔵中の秘蔵として特に大切にしていたのが、 「つくも茄子」と呼ばれる茶入れと「平蜘蛛」茶釜です。
 永禄元年(1558)、久秀は千利休の師である北向道陳や山上宗二・今井宗久といった堺の豪商で高名な茶人たちとの茶会を催しており、「つくも茄子」を披露しています。これは久秀が一千貫もの大金を投じて購入したと伝えられる名物茶入れで、彼の経済力が既に大名家の家老クラスをはるかにしのぐものであったことの証ではないでしょうか。  多門城でも茶会を開き、千利休など一流の茶人を招いていたことが茶会記に記されています。

茶入れ「つくも茄子」

この茶入れは松本茄子・富士茄子とともに「天下三茄子」と言われ、その中でも最も高く評価されていたという大名物です。  つくも茄子は三代将軍足利義満秘蔵の唐物茶入れで、その後将軍家に伝えられ愛用されていたもの。八代将軍義政の時に義政の茶道の師であった村田珠光の手に渡りました。  珠光はこれを九十九貫文で購入したことから、『伊勢物語』の中の歌

「百年(ももとせ)に一とせ足らぬ九十九髪 我を恋ふらし俤(おもかげ)にみゆ」

   にちなみ、「つくも」と名付けたといいます。珠光の手を離れてからも所有者は転々とし、 その度に値段が跳ね上がっていきました。越前一乗谷の朝倉太郎左衛門が入手したときは五百貫、 越前府中の豪商小袖屋の手に渡ったときには、なんと一千貫の値が付いていたとか。越前の戦乱を避けるため、 京都の豪商・袋屋にこの茶入れを預けらながら久秀の手に入ります。 久秀は一千貫もの大金を投じて購入したと伝えられているのです。 当時の茶人の垂涎の的であり、ルイス・フロイスの記録にも登場するほどの大名物でしたが、 足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく、久秀は断腸の思いでこの茶入れを信長に献上し、 配下となったのです。  信長が本能寺に倒れたとき、この名物は本能寺に持ち込まれていましたが、焼け跡から奇跡的に発見され、 次いで羽柴秀吉の手に渡ります。その後秀吉から秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたのですが、 大坂夏の陣で再び兵火に掛かります。戦後徳川家康の命で焼け跡から探し出されたもののかなり破損しており、 修復のため漆接ぎの名工・藤重藤厳の手に渡り、以後藤重家に代々伝えられたのですが、 明治になって三菱財閥の岩崎弥之助の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されているのです。  小さな茶入れから見る歴史の変遷も面白いものです。

松永弾正久秀の胸の内

 松永久秀の三悪と伝えられる将軍殺し、主君への謀反、大仏殿炎上は力に任せ、下克上そのものといったものではなく、 仕えていた三好長慶亡き後の三好家内紛に巻き込まれたという見方もできるようです。長慶にはずっと忠義を尽くし、嫡男義継を守っています。 長慶亡き後、三好家を支えた三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)ですが、長慶の嫡男を担ぎながら、将軍義輝を殺害します。久秀も参加はしたようですが、どうも積極的ではなかったようです。 長慶の嫡男を一時は担ぐものの三好三人衆は後に敵対します。久秀は嫡男義継を守って三人衆と対峙、大仏殿炎上へと歴史の歯車が回ってしまいますが、ここでも実際に火を放ったのは三人衆の中にいたキリスト教の兵士だったという記録もあるのです。 別の記録では三人衆が大仏殿廻廊を火薬庫にしていたことから誤って火がつき、焼失したとされています。今となっては確かめる術もありませんが、秀麗な城を建て、茶の湯を愛した久秀は、 勇猛なだけの武将ではなかったと思われてなりません。ただ、破れた者には弁解の場もなく、さまざまなことは松永弾正の仕業とされたと思われます。
 さて、天正5年(1577)、信長に叛き、平蜘蛛の茶釜と引き換えに命を助けるとの命にも下らず、その茶釜と共に爆死します。それは、大仏殿が炎上した10月10日のことでした。



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