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 今年の奈良は遷都1300年祭で彩られた年でした。あれほど賑わった大極殿も11月7日以降、
随分静かになりました。 それでも年末までは記念の年としての行事が残り、まだまだ奈良を
訪れる方々がいらっしゃるようです。
奈良の歴史や文化は懐が深いから、何度来てもその度に違う表情があります。これからはそんな魅力を伝えていきたいものですね。  慌しい師走の中で忘れられない行事はやはり12月17日の春日若宮おん祭りでしょう。夜中12時、若宮様をお旅所へお遷しする遷幸の儀の森厳な雰囲気は圧倒されるほどです。時代行列や松の下の儀の華やかさとは全く違って神々しく、思わず頭を下げ、手を合わせてしまいました。 大和の一年を締めくくるといわれ、かつては、この日にお正月の買い物も整えたとか。  新年を迎えた睦月は若草山の山焼き。冬空を焦がす様子は平城京跡からも見渡せます。
 寒の極まる2月如月。節分行事が各地で行われます。寒さの中にも射してくる日の光は明るさを増して、春の兆しを感じさせてくれるものです。
 今年の夏の暑さは大変なものでした。温暖化が進んだせいなら冬は暖かなのかしら、という期待は外れるようで、予報によると寒い冬のようです。さて、近年みることがなくなった雪、今年は降るのでしょうか。雪の怖さを知る北国と違って温暖な奈良では雪が降ると嬉しくなってしまいます。雪へ、ちょっと思いを寄せてみましょうか。


万葉集の中の雪

万葉集の中の雪

 万葉集で雪が最初に詠われたのがこれ。吉野の“耳我の嶺”がどこなのかは特定できないそうです。ただ、犬養孝先生は、「飛鳥から龍門山脈を吉野へと何度も山越えしてみると、耳我の嶺は、龍門山に続くこの山なみのどこかでないかと思われる」と書いておられます。 
  いずれにしても雪の中、物思いをしながら歩き続けなければならなかったのはなぜでしょう。
  壬申の乱の前の年(671)、10月19日に天武天皇がまだ大海人皇子だった時、皇子は近江朝を出て翌日吉野へ入りました。兄である天智天皇が病に伏し、皇位を皇子に譲ると伝えましたが皇子は断り、出家して修行すると答えます。皇位をめぐる争いが絶えなかった頃のことです。うかつに答えると謀反の疑いがかけられるから、皇子はそのまま髪をおろし、僧侶となりました。有馬皇子や古人皇子が謀反の罪に問われて処刑されたのを見てきた大海人皇子にとって、命を守る決断だったのです。 
  雪と雨に降られながら、吉野へと逃れたのでした。冷たい氷雨の中、妻子を連れた旅の辛さはどれほどだったことか。原文の「念乍叙来」を「思いつつそく来る」と読むと現在のことになりますが、「き来し」と読めば過去のことになる。とは犬養先生の解釈です。7年後の天武8年(679)5月、吉野行幸の時に回想したのだろうと書いておられます。壬申の乱で勝利し、天皇としての地位を確立して、思い出の地である吉野へ出かけた時に鬱々とした気持ちが蘇ったのだろうと。今回の吉野への旅は天応としての威儀を正した華やかなものでした。季節は5月、風さえ違います。でも、天皇の胸中は穏やかなものではなかったかもしれません。なぜなら皇位継承の問題がのしかかっていたから。この時、皇后と6人の皇子と一緒でした。くさかべ草壁皇子、大津皇子、たけち高市皇子、河嶋皇子、おさかべ忍壁皇子、しき芝基皇子です。天皇は皇子と皇后にちか盟いを立てさせます。これが吉野の会盟。お互いに盟い合わせることで後継問題をおこさせまいとしたのでしょう。
  天武天皇の心には兄、天智天皇の悩みが手に取るように分かったのかもしれません。だからこそ皇位継承を争いの種にしてはならないと強く思ったのでしょう。でも、天武天皇崩御の後、皇后が持統天皇となり、大津皇子は謀反の疑いで殺され、草壁皇子は若くして亡くなります。歴史はやはり繰り返されました。
  天武天皇が残した歌にはさまざまな思いが込められた素晴らしいものだと思います。絶え間なく降る雪は天皇の心のように冷たかったのでしょうか。
  尚、この歌には類歌があることから、古くから伝わっていた歌に自らの心を託したものだといわれています。

  古来、雪は豊穣の予兆として喜ばれていました。天平宝持3年(759)正月1日に詠まれた歌には縁起の良い新年の雪に事寄せて、天皇の御世へ言霊を尽くして言祝いでいるようです。家持はこの時、因幡の国司として赴任しました。山陰の冬は随分と雪が深かったのではないでしょうか。遠い、赴任先で奈良の都を思いながら詠んだ歌には、ただ明るいだけではないさまざまな心が込められているのだと思えてなりません。
  この歌より10年余前、天平18年(746)の正月1日、平城京には雪が降り「地に積むこと数寸」だったとか。左大臣橘諸兄は元正女帝のもとに新年の祝賀と雪の挨拶へと宮中に参内しました。一同は歌を献じたのですが、家持も「大宮の内にも外にも光るまで 降れる白雪見れど飽かぬかも」(巻17-3926)と歌っています。帝の徳を称え、雪が兆す豊作を予祝したのです。これから後、家持はさまざまな人生の試練の時を凌いできました。今は遠い山陰の地で都とは桁違いの雪を前に詠んだのが「新たしき」の歌です。万葉集の最後を飾る歌として広く知られていますが、家持の心のうちは輝くばかりの白い雪とはいかなかったのではないでしょうか。家持は以後生涯を終えるまでの26年間、一首の歌も残していません。どんな思いが去来していたのか、雪が降ったらこの歌を思い出してみてはいかがでしょうか。


雪の結晶

「雪は天からの手紙」という言葉を残したのは低温科学者中谷宇吉郎です。中谷は石川県加賀市出身の科学者で、昭和11年(1936)、世界で初めて人工雪の制作に成功した人として知られています。東京帝国大学を卒業後、理化学研究所で寺田寅彦の下、研究を重ねます。北海道帝国大学、京都帝国大学で指導をしながら着氷防止など低温科学の世界的権威として大きな足跡を残しました。  雪の結晶、それは美しいさまざまな6角形です。奈良と直接の関係はありませんが、雪の研究に一生を捧げた人は今も人々にロマンを届けてくれています。静かに少しずつ。雪みたいに。石川県加賀市には中谷宇吉郎雪の記念館があります。機会があればぜひ、訪れてみたい場所です。




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