「かきつばたで摺り染めにした衣を着て、ますらおたちが薬草狩をする月になったことだ」という意味でしょうか。
かきつばたという花の語源は“書き付け花”。花の汁を布に擦り付けて染めたことからの呼び名が“かきつばな”、“かきつばた”へと転訛したのだそうです。
当時、衣を整えるのは女性の仕事。夫や恋人のために、かきつばたを集めて染めたのでしょう。“着襲ひ”は“着装ひ”と書かれることもありますが、装の方がしっくりくるかも知れませんね。
狩とは毎年5月5日に行われた薬草を採る宮廷行事です。大切な行事のために染められた衣を着て男たちは、晴れがましくも喜びにあふれながら野原を駈けたことでしょう。
万葉集編纂にかかわったといわれる大伴家持は大伴旅人の子で、万葉集には479首もの歌を残しています。恋の歌を多く残す坂上郎女は叔母でその娘大嬢(おおいらつめ)が妻。
この歌が詠まれたのは天平16年4月5日。この年は閏年だったために4月になっています。続日本紀によると天平16年閏1月11日は聖武天皇が恭仁京から難波宮へ行幸しています。途中、安積皇子は脚病を発して恭仁京へと引き返します。しかし、2日後急死してしまうのです。安積皇子は聖武天皇と光明皇后の子基(もとい)王(おう)が亡くなった年に生まれた皇子で母は県犬養広刀自。光明皇后ではありませんでした。藤原氏の勢力拡大と蘇我氏との政争が繰り広げられる中で、安積皇子は藤原仲麻呂によって暗殺されたという説も説得力があります。内舎人だった家持が独りで平城京に残っていたのは安積皇子のお付だったために、服喪していたのかも知れません。家持はどんな思いでかきつばたの花を見たのでしょうか。
すっきりと伸びる緑の葉と紫の花は気品に満ちています。古くから日本人の心をとらえ、物語や歌、絵画、美術工芸、陶磁器にも描かれてきました。
在原業平は「伊勢物語」でかきつばたの文字を頭にして歌を詠ませます。「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」という有名なあの歌です。都を離れて三河の八橋というところまで来るとかきつばたが咲いていて、歌を詠んだのですが、かきつばたという花が妻を思い出させるのですね。かきつばたから連想するのは摺り染め、そして染めてくれた妻ということなのでしょう。床しい連想です。
5月になると法華寺、依水園などでかきつばたが美しく咲きます。さまざまなことを思わせる花ですね。
母の日。子供たちが幼稚園の時に描いてくれた私の絵、今も大事にとっています。今年は出して飾ってみようかしら。
5月のことを皐月(さつき)って言うでしょ。これは早苗月からの言葉なんだって。知りませんでした。もう田植えの季節なのね。
今年はガーデニングに、と言っていた人、早くも雑草引きでいやになったとか。三日見ぬ間の桜と言いますが、三日見ぬ間の雑草かもね。
大きな鯉のぼりを揚げて、喜んでいるのは子供と夫だけと友人が話していました。雨が降ると大急ぎで入れなければならないし、出かけていてすっかり濡れた鯉のぼりは重くて、となかなか。
紅葉で有名なお寺へ行ったら、楓の新緑のきれいなこと。体も心も爽やかな緑に染まってしまうほど。楓って紅葉もだけど新緑も本当にきれいなんですね。