万葉集の歌をひもときながら、季節の足音に耳をそばだててみましょう。連綿として伝え継がれてきた歌に身を委ねながら、古代の人々の思いをたどり、夢をたどり…。その先に何を見つけることができるやら。
歌の意味は私の旅は七日間を過ぎてしまうことはないでしょう。だから龍田の神よ、この桜の花を風で散らさないでください。ということでしょうか。
作者は、高橋虫麿。高橋連は物部氏や石上氏などと遠祖を同じにするともいわれるが、虫麿との関係ははっきりしないようです。正倉院文書の中に“高橋虫麿”という名前が出てきますが、天平14年という年代が合うこと、位が低く、相当のくらしをしていたらしいということなどから歌人虫麿と同一人物だと考えられています。虫麿は東国へ赴任していたらしいのですが、このことは万葉学者犬養孝による「魂の故郷を持たぬ漂泊の精神」の持ち主ということと無関係ではなさそうです。叙情歌人の柿本人麻呂、人生詩人の山上憶良、叙景歌人の山辺赤人というならば、虫麿はさしずめ伝説の歌人、叙事詩人ともいえるとか。作風が叙事的であり、伝説によった歌を詠む虫麿はロマンティストであり、表現からみればリアリストでもある魅力的な歌人です。
この歌は、平城宮の高官が龍田を越えて難波へと向う時に詠んだものです。平城京から難波へと向う道は生駒越え、龍田越えがありましたが、生駒よりも龍田の方が遠回りながらゆるやかな山道だったことから、龍田越えが良く使われたようです。しかし、当時の龍田越えがどこであったのか、明らかではありません。
風よ吹くなと願った龍田彦とは、風の神様。崇神天皇の時代、数年にわたって凶作が続き、疫病が流行したために天皇自ら祈願すると、御柱命、国御柱命の神を龍田山に祀れとのお告げがあったそうです。日本書紀では天武天皇4年(675)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田に祀らせたとの記事があります。
龍田大社は三郷町にあり、龍田神社は斑鳩町にあります。斑鳩町の龍田神社には聖徳太子にまつわる伝説が残されています。太子16歳の時、飛鳥から法隆寺建立の地を求めて竜田川沿いを歩いていると白髪の老人と出会いました。老人は「ここから東にイカルが群棲する郷がり、そこに伽藍を建てるように」と告げたそうです。太子は老人が誰であるかを問うと「私は龍田の山すそに住み、秋の紅葉を楽しんでいる間に千年を過ごしてしまった」と言うので、太子はこの老人が土地の守護神だと察し、法隆寺の守護を頼んだのです。この老人こそが龍田明神の化身であり、斑鳩にも龍田神社を祀り法隆寺の鎮守としたということです。
風の神を祀るふたつの神社では7月に風鎮祭が行われます。三郷町の龍田大社には犬養孝の揮毫による歌碑が立ち、周囲にはしだれ桜が花を咲かせます。
三郷町の龍田大社、斑鳩町の龍田神社を訪ねて虫麿の歌に龍田の神や聖徳太子に思いを馳せながら歩いてみましょうか。
今年の桜はどこへ見にいきましたか。特別にお花見というわけにはいきませんでしたが、住宅地の遊歩道の桜、とてもきれいでした。それから公園にある一本だけの桜も。
散歩していると花盛りの庭が目につきます。とりどりの色で飾った庭や色を揃えた庭、住む人の好みがうかがえて微笑ましくなります。狭い露地に並べた鉢植えに苺が色づいていたりするのも楽しいものです。
春の雨があがった頃、神社の境内へ行くと木や土、そして枯葉が土へ還ろうとしているというのでしょうか、それらがないまぜになった匂いが立っていました。体に染み通っていくような豊かな匂いでした。香水ではけっして作れないような。
草引きをしているとその際限のなさには驚くばかり。三日見ぬ間の庭の草といったところです。こちらも妙にファイトが出たりしています。