2日 | 石上神社/玉の緒祭 |
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3日 | 法隆寺/追儺会(斑鳩町) 春日大社/節分万燈会(奈良市) 興福寺/追儺会(奈良市) 金峯山寺/節分会・鬼火の祭典(吉野町) |
5日 | 法隆寺 三蔵会(斑鳩町) |
11日 | 広瀬神社 砂かけ祭(河合町) |
12日 | 岡寺 初午(明日香村) |
14日 | 長谷寺 だだ押し(桜井市) |
15日 | 興福寺 涅槃会(奈良市) 法隆寺 涅槃会・涅槃図公開(斑鳩町) |
20日 | 浄見原神社 国栖奏(吉野町) |
24日 | 当麻寺奥院 御忌大法要(葛城市) |
「宮廷に仕える大宮人は暇があるからだろうか、梅の花を髪に挿してここに集っているよ」
早春の日に若い貴公子たちが集っている絵のようにのどかで美しい風景です。“ももしき”は大宮人にかかる枕詞。大宮人は宮廷に仕える人のことで男性、女性ともに指すようです。
当時の官吏は早朝に出勤して昼頃には退庁、6日に1日の休暇がとれたとか。宮廷人はことあるごとに春日野へ遊び、四季折々の自然を楽しんでいたそうですから、うらやましいかぎりですね。
2月如月。着て更に着るほど寒さ極まる頃ですが、日差しには力が感じられ、日脚も伸びてきます。冬至の日暮れ時間を思えば、随分日が長くなったと思いますね。春の兆しを真っ先に知らせてくれる花といえばやはり梅の花。刺すような冷気の中に馥郁とした香りとともに咲く姿は潔いほど美しくけな気です。
万葉集には花を詠んだ歌がたくさんありますが、最も多いのは萩で142首、次が梅で118首。当時、梅は中国から伝えられたエキゾチックな花で大宮人にもてはやされ、平城遷都(710)頃からは貴族の館に競って植えられました。
もろもろの花にさきがけて咲き、花の兄、春告げ草、匂草、香栄草、好文木などとも呼ばれる梅。好文木というのは晋の武帝が「文を好めばすなはち開き、学を廃すればすなはち開けず」と言った故事からの名付けです。学者の家柄だった菅原道真はもちろん梅を愛しました。道真が大宰府に流された時、邸の梅の木が九州まで飛んで行ったという伝説があるくらいですから。
桓武天皇の頃、内裏の紫宸殿の前庭には右近の橘、左近には梅が植えられていました。後に内裏が炎上して梅の木は焼けてしまい、再建の時は桜が植えられたのです。奈良時代にあれほど愛された梅は平安時代、桜にとって代わられました。
そして、読人不詳のこの歌は「ももしきの大宮人は暇あれや 桜かざして今日も暮らしつ」(新古今集)となるのです。花の好みも時代によって変化するもののようですね。
奈良には梅の名所が各地にあります。古くから文人墨客に愛されたのが月ヶ瀬。奈良、京都、三重の県境にある里は梅の季節になると大変な賑わいです。ダム湖である月ヶ瀬湖畔には約一万本もの梅が咲き、日ごろは静かな里も賑わいます。歴史は古く、750年ほど前から植えられてきたとか。後醍醐天皇が笠置へと落ちのびた時、側女がこの里で親切にしてもらったのを感謝し、烏梅の作り方を教えたとの伝説があります。烏梅とは紅染の色素定着の媒介剤。大変貴重なもので江戸時代には特産物として大阪や京都で高値を呼びました。もともとあった梅の木はますます植えられるようになっていったのです。
月ヶ瀬の名を有名にしたのは松尾芭蕉、頼山陽、斉藤拙堂、富岡鉄斎といった人々が梅林の美しさを世の中に紹介したから。伊藤博文、井上毅、福沢諭吉なども訪れたといいます。こういった人々の書画は花の頃に公開されます。一目八景、天神の森、祝谷、一目千本、鶯谷といった景勝地には花と香りが続きます。
後醍醐天皇の行宮となった西吉野の賀名生梅林、第ニ阪奈道路添いに見える追分梅林、奥吉野への峠広橋梅林など歴史の故地の梅林はいずれも魅力的です。市街地にある梅の名所といえば、大和文華館の庭園はことのほかの美しさ。果実の収穫を目的とした梅林とは違い、色のあざやかさ、枝ぶりの良さはため息が出るほど。美術品を鑑賞した後のもうひとつの楽しみです。そうそう、菅原天満宮では盆梅展も開かれますね。今年の観梅はさて、どこへ足をむけましょうか。