1日 | 東大寺 修二会 (お水取り)(奈良市・14日まで) 薬師寺 西塔内陣特別拝観 (奈良市・21日まで) |
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5日 | 興福寺 三蔵会(奈良市) |
13日 | 大安寺 馬頭観音厄除法要 (奈良市) |
15日 | 薬師寺 大唐西域壁画特別公開 (奈良市・6月15日まで) 法隆寺 春季秘宝展 (斑鳩町・6月30日まで) |
22日 | 法隆寺お会式(斑鳩町・24日まで) |
25日 | 安倍文殊院文殊お会式 (桜井市・26日まで) |
30日 | 薬師寺 修二会花会式 (奈良市・4月5日まで) |
多くの人々に愛されてきた有名な歌には「志貴皇子よろこび御歌」という題詞があります。
歌の意味はもうそのまま通じますね。志貴皇子にとって何か喜びのあった春の日の心境を石の上を走る水、さわらびに事寄せて歌っています。雪や氷に閉ざされていた流れに、春の陽光がふりそそぎ、とけて勢いよく流れ、滝のほとりのわらびも萌えはじめていよいよ美しい季節が来るというのです。「垂水の上のさわらびの」とのという音が重なる心地良いリズムもうららかな春風とうきうきとした心境を感じさせます。
万葉集は万葉仮名で書かれているのはご承知の通りです。この歌は「石激 垂見之上乃左和良比乃 毛要出春尓 成来鴨」です。走るに激という文字を使われていますが、この例は大変少ないようです。志貴皇子はどうして、この激の文字を使ったのでしょうね。激という文字を使いたいほどのよろこびというのは何だったのか、気になってしまいます。
皇子からは、そこまで深読みしないで、と笑われるかもしれませんけれど。
天智天皇第7皇子として、天智7(668)年(?)から霊亀2(716)年を生きた皇子ですが、生きる上では苦労の多い人だったといわれています。古代における最大のクーデターとして知られる壬申の乱後、それまでの天智系から天武天皇を中心とした世の中に激変しました。天智天皇の皇子である志貴皇子にとっては一挙手一投足にも気を使ったのではないでしょうか。どんなに小さな言葉であっても、取りようによっては謀反の企てありと言い立てられるかも知れないのですから。
母が采女出身ということで、もともと表舞台に立っていなかったのが却って幸いだったかも知れませんね。天智時代にあっても一歩身を引き、壬申の乱以後は一層政治から遠のいていた皇子にとって、自然や人間の心のありようがどれほど慰めとなったことでしょう。こまかな行き届いた心づかいのできる人で、万葉集には6首の秀歌を残しています。優雅で繊細で、しかも現代にも通じる感性は志貴皇子ならでは。
皇子の山荘があったといわれるのが高円山、白毫寺の場所だったようです。古びた石段を上ると境内からはおだやかな大和盆地が一望できます。ここは萩の寺としても有名ですが、当時も萩の名所だったようです。そして、もうひとつ、椿の名所としても知られています。一本の椿の古木には紅、白、絞りなど五種類の花をつけ、大きな花が落下する様も見事です。
万葉集巻2には志貴皇子が亡くなった時の挽歌が残されています。「高円の野辺の秋萩いたづらに 咲きか散るらむ見る人なしに」という笠金村の歌は良く知られています。道を来る人さえ涙を流して皇子の死を悼んだといいますから、どれほど慕われていたことでしょう。
政治よりは詩歌、文化に生きた志貴皇子ですが、皇子である白壁皇子は後に光仁天皇に即位します。天智天皇の皇統は現代にも連なっていますから、志貴皇子の存在はなかなか大きいものです。
万葉集ののどかな歌の中にはさまざまな物語を含んでいて、興味がつきませんね。志貴皇子のよろこびとは何だったのか、なんてことも当時の政治状況や年齢など考えあわせながら恋なのか、政治的なことなのか、想像を逞しくして、自分なりの解釈を楽しんでみましょう。