1日 | 宝山寺大般若会式(10日まで)(生駒市) |
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2日 | 東大寺聖武祭(奈良市) |
3日 | 久米寺練供養(橿原市)
大峰山戸開式(天川村) |
4日 | 薬師寺最勝会(奈良市) |
5日 | 春日大社舞楽演奏会(奈良市)
薬師寺玄奘三蔵会大祭・万燈会(奈良市) |
11〜12日 | 興福寺薪能(奈良市) |
14日 | 当麻寺練供養(葛城市)
石光寺傘堂祈願(葛城市) |
15日 | 称名寺珠光忌(奈良市)
おふさ観音バラまつり (6月30日まで)(橿原市) |
19日 | 唐招提寺うちわまき会式(奈良市) |
28日 | 不退寺業平忌(奈良市) |
31日 | 唐招提寺鑑真和上坐像・
御影堂障壁画全面特別開扉(6月8日まで) |
“藤の花が今を盛りに咲いています。奈良の都ではそこここに藤の花がみられましたから、きっと懐かしく思い出していらっしゃるでしょうね、あなた様も”
神亀5年(728)に大伴旅人は大宰府の長官として九州へ赴きました。長官赴任に歓迎の宴の席でさきもりのつかさ防人司のすけ佑だった大伴四綱が旅人へ奉った歌です。
旅人は名門大伴氏の嫡男として天智4(665)年に生まれ、古代日本の貴族社会で生きてきた人です。山上憶良や柿本人麻呂といった万葉歌人とは、どこか違ったおおらかさと優雅な情感、雰囲気が感じられるのも育った環境の影響でしょうか。もともとは物部氏と並ぶ武門の家ですが、武だけでなく文にも秀でた一族で、恋の秀歌を残す坂上郎女は妹、息子の家持も万葉集を代表する歌人としてあまりに有名です。
さて、旅人が九州へ赴いたのは60歳を過ぎてからといわれています。藤原氏による左遷という説もあります。だとすると四綱のこの歌はちょっと無神経な歌ともとれますよね。藤の花といえば藤原氏を象徴する花なのですから。それとも“藤の花が盛りと咲く奈良の都は藤原氏が政権掌握を着々と進めているのですよ、どうお思いになりますか、あなた様は”という意味で歌ったのでしょうか。万葉集のさまざまな訳の中にはこんなものはありませんが…。
と歌いました。
“私の盛りは再び若返って戻るでしょうか、いえ、そんなことはないでしょうよ。ほとんどあの賑やかに栄える奈良の都を見ることなどないでしょう”
当時の60歳ですから、今なら充分老人でしょう。しかも交通手段は自分の足。長い旅程を思えば奈良に帰られないかも知れないという思いは深かったはずです。左遷ではないという説もありますが、そうだとしても老年に入ってからの長旅や住み慣れない九州での暮らしは、体力的にも精神的にも大きな負担だったに違いありません。
大宰府にいる人々もかつては都にいた人々ですから、新任を迎える時に望郷の思いが迸ったのでしょう。四綱は当時さきもりのつかさの防人司すけ佑。これは東国から集められた防人たちの名簿作成、武器や食糧の調達、教育などを司る役を任じられていました。都から遠く離れるほどに募る望郷の思いが口をついて出たのでしょうが、名門貴族である旅人の心中は複雑な思いがあったことでしょう。藤の花は豊作を予兆する木として神聖視されていたようです。だからこそ神職にかかわる中臣氏が藤原と名乗ったのでした。そして春日の森には今も藤の木がたくさん咲いています。5月、それまでは緑で藤の木がどれくらいあるのか見えませんが、花の季節になるとこんなにも多かったと驚くほど。
春日大社の砂ずりの藤も連休明け頃が見頃でしょうか。神苑には白藤、黒龍などさまざまな藤が咲き香ります。朱塗りの社殿を背景にした藤の花の優雅なこと、旅人の胸中を思いつつ眺めると歴史が身近に立ち現れるから不思議です。
そうそう、「あおによし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり」というあまりにも有名な小野老朝臣(巻3‐328)の歌、花は桜という先入観で見る向きが多いようですが、もしかしたら藤の花ではないかという説があります。桜をこよなく愛するようになったのは平安時代からといいますから。さて、どうご覧になりますか?