木枯しが吹いて、木の葉を散らすと野山は寒々とした枯れ色になります。そんな中で山茶花は初冬を彩る数少ない花。生垣に白や薄紅の花盛りを見るとほっとしてしまうのは何故でしょう。風も無いのにはらはらと散り敷かれていくのも風情があるものです。遷都1300年の舞台となる平城宮跡では築地塀だったところに植えられ、赤い花を咲かせます。山茶花の背景には朱雀門。奈良ならではの風景です。大極殿が姿を見せると山茶花も一層華やぐことでしょう。
白い山茶花が美しいのが矢田寺。紫陽花寺としてあまりに有名で、山茶花を見に来る人はあまり見かけませんが、白壁越しの白い花は息を呑むほどの美しさ。
そういえば「さざんか、さざんか咲いた道 焚き火だ焚き火だ 落ち葉 焚き あたろうか あたろうよ」なんて歌もありましたね。
今、街角での焚き火はダイオキシンなど化学物質を発生させるとのことでできなくなりました。焚き火でさつま芋を焼くという楽しみ同時に失われてしまいました。文明は進んでも、文化はどこか後退しているような気がしないでもありません。子どもたちの心にはどんな冬の情景が刻まれるのでしょうか。
冬は花が少ない季節ですが、北風や霜、雪の中でもけなげに咲く姿は心を打つものです。
石光寺の寒牡丹も忘れられない花です。稲刈りが終わった頃、お寺へ行きましたら、お寺の方が寒牡丹を覆う菰を藁で編んでいらっしゃいました。秋の陽を浴びながら、藁を数本取っては重りを付けた糸で編んでいくのです。丁度、組みひもを編むみたいに。そのゆったりとしたリズムと雰囲気に見入ってしまいました。冬支度はこんな穏やかな秋の日からもう始まっていたのでした。一枚ずつ丹念に編まれた菰で、大切に守られる寒牡丹。葛城山を吹き降ろす冷たい風の中でとりどりの花を咲かせるのですが本当に寒くなると、葉を出すことさえなくなるとか。ひたすら花だけに力を注ぐのでしょう。
奈良市内の般若寺では水仙の花が冬を彩ります。凍てつく寒風の中に清らかな姿を見せる水仙は別名「雪中花」にふさわしいですね。ここでも住職自ら花を丹精されます。花の向こうには花守の手が見えるようです。
冬の星で一番先に思いつくのがオリオン座。南の空に輝きます。オレンジ色の一等星ペテルギウスは狩人オリオンの右肩に、青白く見える一等星リゲルは左足、その間の三ツ星は腰のベルトにあたります。オリオンは夏の星座になっている毒サソリにかかとを刺され、夜空の星になったとか。月の神アルテーミスの嫉妬が原因で星になったという説もありますが、どうなのでしょう。 オリオン座のペテルギウス、大犬座のシリウス、子犬座のプロキオンを結ぶと冬の大三角形になります。地球からそれぞれ500光年、8.6光年、11光年の距離にある一等星です。ペテルギウスが随分遠いのにあかるく見えるのは太陽より500倍ほども大きな赤色巨星だからです。どれくらい先か分かりませんが、ペテルギウスはエネルギーのバランスを崩して星全体が砕け散る大爆発を起こすといわれています。その時、星の中心には爆発の反作用で超高密度の天体ができるのだそうです。これが光りまでも吸い込んでしまうブラックホール。 また、オリオン座にはM42と呼ばれる散光性雲があり、この星雲の中では水素ガスが集まり、新しい星が生まれているのだそうです。大宇宙にも生と死のダイナミックな営みがあるのですね。冬の強い風に払われて空気が澄みますから、手袋に帽子、マフラーを巻いて夜空を見上げてみるのもいかがでしょう。 日本人は星より月を愛してきましたが、冬の星を詠んだこんな句、ご存知ですか? 「寒星や神の算盤ただひそか」 中村草田男 冬の凍るような空に輝くのが“寒星”です。江戸時代の季語には「星さゆる」がありますが、「寒星」は見当たりません。新しい季語だといわれています。この句は澄んだ真冬の夜空び満天の星が煌き、静かに天穹を巡っていくのを何か大いなる存在の計らいだと感じているのでしょう。神という絶対者が宇宙の算盤を弾いているというのです。壮大な世界をたった17文字で表現していることに驚きます。言葉を尽くしても天空のことは手に負えないというのに。草田男には算盤の音が聞こえていたのかもしれませんね。だって、普通なら算盤ではなく計らいとか思惑とかになりそうですから。算盤と言ったとたん、この句は息づきます。ここが天才的な表現なのでしょう。さて、寒星を見て、一句ひねってみるのも一興ですね。
寒くなると恋しいのが鍋料理です。あつあつをいただくと体の中から温まりますよね。 “なべ”は肴瓮(なへ)の意味だといわれています。肴はさかな、瓮は素焼きのかめのことですから、素焼きのかめで煮たところから“なへ”という言葉が生まれたようです。土の壷という堝の字が使われていましたが、鉄器の普及によって鍋という字が用いられるようになったとか。囲炉裏端で薪を焚きながら鍋を使って煮炊きした時代は長く続き、鍋そのものが所帯をも意味していたようです。鍋の前で料理を仕切る主婦は「鍋座」「鍋代」「女座」などと呼ばれ、一家の中心的な存在にもなったのです。現在の「鍋奉行」は食事の時間だけですが、以前は生活全般の“奉行”だったのですね。 鍋を囲み、家族が同じ鍋の料理をいただくというのはずっと古くから続いてきた食事風景だと思われますが、鍋料理が普及したのは案外新しいようです。というのも、かつては身分制度がはっきりしていましたから、地位や身分によって皿数や盛り付け、器自体も違うのが当たり前だったのですね。家族でも家長の権限は強く、長幼、男女の区別もはっきりしていた時代には和気あいあいと同じ鍋からいただくことは考えられないことだったとか。しかし、できたてのあつあつを揃っていただく魅力がその壁を崩します。背景となったのが囲炉裏の存在。囲炉裏は竪穴式住居にも痕跡を残すほど長い歴史を持つものです。遠い記憶が囲炉裏端から座敷に炭を火種として持ち出し、鍋料理をするようになったというのです。時代は江戸時代も後期になってから。町家では煤や煙が嫌われ、台所と食事の場が分けられていきます。囲炉裏にかけていた大鍋から食卓へ出す小鍋立てへと代わっていきますが、これが現在の鍋料理。江戸の鍋物と農村の食習慣がこの頃に同化し、日本の鍋文化が形作られたのです。お国自慢の鍋料理と江戸のいなせな小鍋料理がさまざまに作られていきました。 さて、奈良県が推奨する「奈良のうまいもの」七品の中には大和鍋があります。大和の名を付けられた鍋にはしっかりと大和の美味が凝縮するのが特徴。鶏がらでとったスープに豆乳と牛乳を加え、まろやかでコクのある味に仕立てるのです。スープの中には大根、椎茸、人参、豆腐、菊菜などの野菜と大和肉鶏、そして大和芋をおろして揚げたものをクツクツと煮上げましょう。 ぷっくりとした大和芋はモチモチとした食感が口に解けます。すりおろした大和芋に米粉、餅粉を加えて揚げるだけなのですが、スープの味をしっかり含んでそれは美味しいのです。椎茸、ブロッコリー、白菜、豆腐などありあわせの野菜が作り出す見事な味のハーモニー、試してみてはいかがでしょう。 鍋の主役を果たしている大和芋の歴史は米よりも古く、縄文時代から食べていたようです。「平家物語」には零余子(むかご)を持ちながら、忠盛と白河院が語る場面があり、最近注目を集める貝原益軒の「養生訓」や井原西鶴の「好色一代男」には山芋で精力が付くと書かれています。芥川龍之介の「芋粥」の芋は山芋のことです。当時はこれが無上の美味だったとか。大和芋とは奈良でよく見られた品種のこと。山芋の中では最も粘り気があり、餅のような食感です。高級料理の食材や和菓子の原料としても珍重されています。 昔から「精が付く」といわれてきましたが、炭水化物の分解酵素アミラーゼを多く含みますから、麦ご飯にかけると、不消化物の食物繊維も消化されるようになります。ぬるぬるとした粘り気に含まれるのがムチン。ムチンは胃壁粘膜を保護し、たんぱく質を効率よく消化吸収させるといい、滋養強壮、疲労回復にも効果があるそうです。また、食物繊維やカリウムが豊富に含まれますから、大腸がんや高血圧の予防にもなるとか。これほどの食材ですから、「山薬」として漢方薬にも使われているようですよ。