秋はちいさく、そっと訪れる気がします。ほんの少し前までうるさいほどの蝉時雨だったのに気付くと虫の音に変わっていたり、昨日まで蹴飛ばしていたタオルケットに今日はくるまっていたり。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・・」の歌に頷いてしまいます。そういえば「小さい秋見つけた」っていう歌もありました。「誰かさん」と「小さい秋」を三度づつ繰り返すところが、いかにも目に見えない、しのびやかにやってくる秋らしい感じです。いつの間にか木々が色づき散っていき、野山も枯れ色をまと纏います。月が美しいのも秋ですね。月といえばやはり薄でしょうか。中秋の名月の日はスーパーでも「ご自由にお持ち帰りください」と札を下げた薄が置かれています。野山が最も美しいのは秋という人、案外多いようです。山上憶良は「萩の花 尾花 葛花 撫子の花女郎花また藤袴朝顔の花」(万葉集 巻8)と秋の草花を読み上げました。
春の七草はお粥にしていただきますが、秋の七草は見て楽しみますね。昔から秋の七草で何かの行事をすることはなかったようですが、万葉の時代から秋の草花は歌に詠まれてきました。まだ、残暑が続く中に咲く花は、秋の先触れだったのかも知れません。目にははっきりと見えない季節の移ろいを肌で感じるからこそ花にも秋を見つけることができるのでしょう。
平城京へ遷都して来年は1300年を迎えます。遥か遠い時代に生きた山上憶良は、貧窮問答歌や子を思歌など細かな心の襞を大切にした、豊かな感性を持つ人だったのでしょう。だからこそ、秋の草花の中から七草に目をとめ、歌ったのですね。
大極殿の覆いが取れ、姿を見せる平城京には湿地もあってさまざまな動植物が命をつないでいます。ここなら私の秋、きっと見つけられるのではないかしら。
秋は収穫の季節です。稲穂が頭を垂れ、梨や葡萄、柿、栗などの果物も実ります。一体大地のどこに作物を育み、実らせる大きな力が潜んでいるのでしょうね。実りの多寡が命に通じていた時代、人々は祈りと感謝をおおいなる自然へ捧げてきたのです。奈良時代からその年の最初に収穫された新しい穀物は朝廷に奉納されました。五穀豊穣の祈りが通じたことに感謝し、神様に供えるようになった祭りですね。宮中では11月23日に天皇
が今年採れた五穀を天つ神、国つ神に捧げ、ご自身でも食して神々へ感謝する祭りを新嘗祭とよびます。嘗は饗に通じ、神に食物を供えること、神と共に食することだとか。
美術史家の木村重信さんによると、農耕民族と一部の狩猟民族だけが仮面文化を持つのだそうです。アフリカやオセアニアの熱帯多雨地域では仮面が社会的、宗教的生活にきわめて重要な役割を果たし、さまざまな儀礼にもちいられるといいます。日本や西ヨーロッパのような温帯では、仮面が演劇など限られた分野で用いられるのだとか。
意外だったのは遊牧民が仮面を一切持たないということです。トルコの遊牧民の諺に「雨を待つより、雨の降ったところへ行け」というのがあるそうですが、日本なら「果報は寝て待て」。日本人を含めて農耕の民は土地との結びつきが極めて強いですね。農耕の民は人も食物も大地の恵を受け、やがて大地に帰ると思っています。ここから大地にまつわる信仰や儀礼が生まれたのでしょう。仮面は人々が日常的な存在から霊的存在へ飛躍するための重要な道具です。能の舞台で演者は面をつけることで現世を超越してしまいます
遊牧民、牧畜民は儀礼に牛や羊が生贄として捧げられます。農耕社会では一粒の種が土の中で育ち、何倍もの実りをもたらすことから土には力が潜み、ここから地母信仰が生まれます。地母神は春に現れ、冬になると死に、翌春に復活するのです。これは、作物の生と死、そして復活が一年のサイクルの中で目に見えるから。これに対して、牧畜では生と死が直接的に見えないのです。羊が子どもを産んでも母羊がすぐに死ぬわけではありません。風土によって死生観は随分違うものなのですね。これはお墓の違いにも通じるのではないかと木村さんは書いていらっしゃいます。遊牧民の埋葬はずいぶんあっさりとして、墓石もないようです。砂漠地帯では結局埋もれてしまうし、敵の多い民族興亡の地域ではなおさら墓標を置かないとか。たとえば、あれほどの世界帝国を築いたチンギス・ハンさえ墓の痕跡がないというのですから。興味のある方は「木村重信著作集 第8巻」を読んでみてください。
9月9日は重陽の節句。奇数は割り切れないことでめでたく、その陽の極まりである99が重なるところから重陽と呼ばれます。この日に菊が尊ばれたのは中国の伝統によるもので、花には延寿、薬効があると信じられたからです。
周の第五代の王であった穆王は慈童という若者を寵愛していたのですが、ある時慈童が王の枕を跨いでしまったのです。本来なら死罪になるところを深山へ配流されます。枕はそれほど大変なものだったのでしょうか。かつて、枕は魂倉が語源とされ、それを用いる人の霊魂が宿る、大切なものでした。だからこその重い刑罰だったのですね。
生きて戻った者のないという山です。慈童は穆王から尊い経文の二句を授けられていました。慈童はこの言葉を菊の下葉に書き付け、その菊の葉からわずかに落ちる谷の水を飲んでいたのですが、何と少しも老いることなく700年(一説には800年もあります)も生き延びたのです。
時代は移り、魏の文帝の頃、王の命を受けて霊水を求め、深い山に入った一行は菊の咲く山中に少年を見つけました。この少年が慈童だったのです。これが重陽の節句に欠かせない菊酒の起源だといわれています。
重陽の節句には酒に菊の花を浮かべ、長寿を願い、前夜から菊の花に綿を被せ、露の染みこんだその綿で体を拭きました。香り高い菊ならではの優雅な風習ですね。9月9日には、せめて菊酒でもいただきましょう。
秋が深まれば、熱燗のおいしい季節。ぐいぐいと飲んでいたビールから、一献の杯へと変わるのも楽しいことです。ヨーロッパでは葡萄の収穫を迎えます。11月第3木曜日といえばボジョレー・ヌーボー。ローヌ県北部で出来るワインの新酒はまるでお祭のようにして出されるようです。新しいもの、お祭が好きな日本人にはきっと受けると仕掛けたのが奈良市出身でグラフィックデザイン界の長老、麹谷宏さん。麹谷さんは青春時代のパリで学んだワインを日本に紹介した功労者でもあり、フランス政府から勲章が贈られた方でもあります。料理に合わせてお酒を選んでみてはいかがでしょう。
秋の星座には明るい一等星がひとつしかありません。“みなみのうお座”にあるホーマルハウトです。魚の口を意味するこの星には“みずがめ座”から不老長寿の酒が流れ込んでいます。水瓶を持っているのはオリンポス山にある神々の酒倉を守るというギリシャの美少年ガニメデス。
みずがめ座の西にある“やぎ座”は牧神パンの変身した姿です。いつも陽気なパンは葦の縦笛を吹いていました。そこに怪物中デュホンが現れたので神々は慌ててナイル川に飛び込み、魚に姿を変えて逃げました。これば“うお座”やみなみのうお座になったのです。パンだけは浅瀬に飛び込んだため、水に入った下半身だけが魚になり、上半身はやぎのまま空に昇ったのだとか。
天の川に沿って“ケフェウス座”、“カシオペア座”、“ペルセウス座”が並びます。近くの“ペガサス座”、アンドロメダ座“、くじら座”と共に古代エチオピアの関係のある星座ですが、アンドロメダ座には230万光年にあるM31銀河があるのです。
今年は日食で天体へ関心が寄せられました。これを機会に秋の星座も見上げてみてはいかがでしょう。