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暮らしの歳時記 2010年 春

 この冬はずいぶん寒く、雪の被害がニュースになる地方もありました。温暖化が問題になっていますが、中には寒冷化という説もあって一体どっちなの、と思ったり。いずれにしても地球は繊細で傷つきやすいものという認識に立って、暮らしを見つめたいですね。
2月は寒中でもさすがに日差しは春。その上、急に気温もあがって、縮こまっていた体がほぐれるようです。
 でも古くから大和では、お水取りが終わるまで気が抜けないと言われてきました。コートのクリーニングもそこまでは待つという人が多いのも大和ならでは。また、奈良には「寒さの果ても彼岸まで。まだあるわいな一切経」などといって、寒暖の差の激しい季節に油断しないように伝承されてきました。お彼岸の中日は3月21日、一切経の法要は4月8日に行われます。まあ、この頃になれば本当の春ということでしょう。まだ、まだ、花冷えという言葉もあるよ、との声もきこえそうですが。
 さて、今年の奈良は遷都1300年という記念の年。お正月にはカウントダウンのイベントもありましたが、はやり4月24日のオープニングからが本番です。その舞台となる平城京はこの機会に歩き、歴史の跡をたどってみたいものです。

平城宮を歩く

 和銅3年(710)、元明天皇は藤原京から平城京へ都を遷しました。奈良王朝の誕生でです。以後7代74年間、「青丹よし寧楽の都」と詠われた都は政争を繰り広げながら、シルクロードの終着点として馥郁たる文化の華を咲かせることになります。背景には、世界の中心として絢爛と栄えた唐の有形無形の文化を伝えた遣唐使たちの存在を忘れるわけにはいきません。

 平城宮跡は約120ha、甲子園球場の30倍という広さで、周囲を歩くだけでも3時間ほどかかります。人々の想像をかき立て魅了する古代の史跡は、足元の地中に今も眠っており、営々として発掘中。調査が進むと謎が史実へと書き換えられますが、そこからまた新な謎も生まれてきます。宮跡は古代の扉が幾重にも続く迷宮なのですね。ちなみに、平城宮とは大極殿、内裏、朝集殿などの役所がある宮殿のことで外側は高い築地塀で囲われ、朱雀門などの門からしか出入りできませんでした。平城京というのは平城宮を含む都市空間。朱雀門から中へは一般庶民の入場を禁じられた特別な区域だったのです。その広さがこれですから、驚いてしまいます。
 広大な宮跡発掘を行うのは奈良文化財研究所。土器、古銭、瓦などさまざまなものが出土しますが、木簡は古代からの手紙ともいわれます。小さな木簡の削り屑も大切な資料として読み解かれ、古代の暮らしぶりが伝わってくるとか。地方から送られた荷物から、奈良時代の食事も解明されてきました。やはりご馳走は魚や肉の生のものだったようで、鯛の膾などに舌鼓を打っていたとか。
 古代のチーズとして知られる“蘇”、これは大変貴重なものでした。蘇は牛乳を16時間ほども煮詰めて作られます。原料の10分の1になってしまうのです。しかも当時の牛は今のようなホルスタインではありませんから、母牛は子どもを育てるほどのお乳しか出ません。それを集めるだけでも大変なのに、更に煮詰めてやっとできた“蘇”は薬になるほど滋養のある食べ物として貴族の中でもよほど位の高い人だけが手に入れていたようです。
 現在、古代の食事をもとに再現しているのは明日香村の祝戸荘と奈良パークホテル。どちらも須恵器に盛られ、天平の雰囲気が漂います。食品の数の多さ、豊かさはちょっと驚きですよ。魏志倭人伝では倭人が手で食べると記されています。つまり手づかみ。遣隋使によって箸が伝えられ、聖徳太子の頃から食が食事になっていったようです。大皿に盛っていたものを小皿に取り分けるようになり、京料理の基本は平城宮で形づくられていきました。奈良には伝統的な料理がないなどといわれますが、食の基本の地だといえるのではないでしょうか。
 遣唐使は唐から最先端の文化を伝えます。
朱雀門、大極殿、各寺院なども遣唐使や渡来人の力がなければできなかったことでしょう。
 ただ、面白いのは、公の建築物である、大極殿や朱雀門、寺院は瓦葺きで床はセンという瓦のタイルで履物のまま建物へ入る唐様式ですが、内裏、つまり天皇のプライベートな住居では桧皮葺、板張りの床で履物は脱いで入っていたこと。外国の使節などを迎える時は唐様式だけど、家族と過ごす時は古墳時代そのままの暮らしで、室内には遣唐使によってもたらされた唐や西域の文物で飾っていたということです。和魂洋才といいますが、その伝統はこのあたりからのことかも知れませんね。この春、奈良文化財研究所の資料館がリニューアルされますが、内裏内部も復元展示されるようです。

平城旧跡を守った人

 今、復元された大極殿は第一次のものです。少し東に基壇が築かれているのが第二次大極殿跡。明治時代、平城宮跡発掘のきっかけになったのはここです。昔から「大極の芝」と呼ばれていた場所は何かの史跡があるに違いないと信じて発掘した人がいて、この史跡の存在が明らかになったのです。
 長岡京から平安京へと都が移って、平城宮は廃墟となり、やがて田畑になってしまいました。農家の人々は田畑の下に古代の都が眠っているとは知らず、耕し続けていたのでした。ただ、畑の中から瓦や壷などの破片が出ることや、言い伝えで“大極の芝”という名称から何かあるらしい、という程度だったようです。江戸末期に生まれた棚田嘉十朗は、明治時代になって、古社寺修理技師・関野貞の影響で平城宮跡に深い関心を持つようになりました。その嘉十朗と知り合った溝辺文四郎もまた、古代の都に魅入られたようです。嘉十郎は明治33年(1900)、幕末に作られた「平城内裏敷地図」を複製して配り、奈良県民に平城宮跡の保存を呼びかけるとともに、朝堂院跡に木製の標を建て、明治39年(1906)には「平城宮址保存会」を立ち上げ、政府に保存を陳情しました。広く寄付を募って宮跡の買収を進めるなど保存へ情熱を傾け、明治43年(1910)11月には平城奠都1200年祭が開催されるまでになったのです。その時に「平城宮大極殿跡」の木柱が立てられ政府や県も保存に乗り出すことになりました。寄付を集めるとともに莫大な私財を投げ打って跡地の買収活動に力を尽くした嘉十朗ですが、報われることはなかったようです。私財を活動に使い果たし、厳しい暮らしの中、失明してしまいます。溝辺文四郎が亡くなると希望を失ったのか大正10年(1921)62歳の時に自ら命を絶ってしまいました。
 翌年、保存会は買収していた宮跡を国に寄付、「史蹟名勝天然記念物保存法」による“史蹟”に指定されたのです。こうして、棚田嘉十朗の願いは結実し、平城宮跡は奈良県民をはじめ、日本人の宝物になりました。100年前を思えば、1300年祭は何と恵まれたことでしょう。
 朱雀門の門前には嘉十郎の像が建てられ、像の指差す先に復原された大極殿が見えます。今、こうして遷都1300年を迎えられるのは棚田嘉十朗の苦難の人生があったからこそ。平城宮の歴史は1300年ですが平城宮跡はたかだか百年。嘉十朗がいなければ、田畑は町になり、ビルや道路になって幻の都として人々の記憶にも残らなかったのではないかと思います。1300年の記念の年に棚田嘉十朗や溝辺文四郎といった人が命を賭けて守ったことも思い出してみてはいかがでしょう。

遣唐使

朱雀門の近くにある壬生門跡あたりには、遣唐使として活躍した吉備真備が設けた“目安箱”もあったといいます。当時目安箱という名前ではなかったでしょうが、多くの人々の意見を取り上げるためのものです。字が書けない人には代筆も行われていたとか。式部省もこの近くで遣唐使の人事査定が行われていたことが木簡の文字から読み解けるのだそうです。遣唐使として大いなる成果をあげた人もちょっと褒められただけで終わった人もいたのですね。木簡の削り屑の中からはそんな人々の悲哀も伝わってきますから、まさしく古代からの手紙。
 奈良国立博物館では4月3日(土)から6月20日(日)まで「大遣唐使展」が開かれます。630年に第一次遣唐使が派遣されてから約260年間にわたって唐の先進文化技術が伝えられました。遣唐使には山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備、最長、空海といった錚々たる人物がいます。今回の展示では平安時代の絵巻の白眉といわれる「吉備大臣入唐絵巻」がボストン美術館から里帰りです。石造観音立像がペンシルバニア大学博物館から出展されますが、薬師寺の国宝聖観音と並びます。同じ時代に造られた中国と日本の観音像の夢の競演と開幕前から評判となっています。京都の安祥寺本尊十一面観音立像も注目。今まで秘仏として知られなかった名仏像が初めて出展されます。この春、博物館からは目が離せられないみたいですよ。



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