昨年までは「弥生3月春うらら」などと呑気に春を待っていましたが、今年は3月といえば11日。のどかな春から厳しい春を連想してしまいます。やっと一年が経ちましたが、行方不明の方々もまだまだ多く、瓦礫の処理の見通しも立たず、何より放射能の影響はこれからどれだけ広がっていくのか見当もつきません。大きな災害は私たちの生き方にも影響を与えました。エネルギーに限りがあるとは言われていましたが、それに代わる原子力がこれほどの危険を孕んでいたとは迂闊にも認識していませんでした。
資源のない日本で原子力にも頼らない生き方を探っていかざるを得なくなったのですから、大変なことです。被害を受けた東北の方々の姿が世界中に感動をもって報道されました。それは、幸せを求め、経済一辺倒で突き進んだ人々がうすうす気付き始めていた「本当にこれでいいの?求めてきたのはこんな社会だった?」という小さな疑問への回答があったからかも知れません。財産や命さえ無くして立ち尽くしながらもなお、人間の尊厳とやさしさを持つことができる、そんな社会があったのだという深いメッセージを伝えたからではないでしょうか。経済が何より優先させることでもしかしたら、大切なものを切り捨ててきたのではないかしら、と立ち止まった瞬間でした。
断捨離や捨てる技術などの本がベストセラーになっています。たくさんのモノを持つことが幸せだった時代の終焉です。大量生産、大量消費から少ないモノを大切に使うという新しい時代へ踏み出したのが今ではないでしょうか。モデルを昭和に求めて「三丁目の夕日」がヒットしたのでしょう。
荒れ狂った三陸海岸にもおだやかな春の海が静かに波を立て、ひねもすのたりのたりといった風景を見せてくれることでしょう。春よ来い、早く来い!
昨年、被災地を訪ねられた皇后陛下に水仙の花束を渡した方がいらっしゃいました。津波の跡に咲いていたとか。花は人々を慰め、励ましてくれるものですね。誰の小説だったか、病室の中で生きているのは花だけだったという一節がありました。病院へ花束を持ってお見舞いに行くのは、命をプレゼントすることだったのですね。
3月の花といえばさて何でしょう。「まんず咲く」から名付けられたというマンサク、ミツマタ、コブシ、モクレンなどなど野山にはこれからたくさんの花が咲きます。中でも椿は春の木そのもの。昔から霊力のある木として大切にされてきました。古代の宮中では、正月初卯の日に、邪気を祓い、長寿を願って椿の枝が珍重されたといいます。
奈良で椿といえば巨勢ではないでしょうか。御所市古瀬には巨勢氏の氏寺であった巨勢寺跡がありますが「万葉集」の「河のへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は」を思い起こすところでもあります。「つらつら椿つらつらに」とつらつらを繰り返す語調の良さはいあかにも野生の椿がつややかで濃い緑の葉に見え隠れしながら、咲き連なる椿の印象を謳いあげています。
また、桜井市には海(つ)石榴(ば)市(いち)という所があります。記録に残る最も古い「市」だったといわれています。五日市、二日市、八日市などという地名が残っていますが、かつての「市」が開かれていた場所。ただ、交通の便が良くて物々交換の市開かれただけではなく、神社やお寺などとのかかわりがあったとか。海石榴にも観音様が祀られていましたっけ。海石榴市は飛鳥の都に近く、難波からは大和川でくることもできたようです。
民俗学者の折口信夫によると市としての機能だけではなく、鎮魂の場でもあったとか。ここに椿の杖をもって、春の魂を呼ぶそんな儀式がされていたのかも知れませんね。雪を被っても花を咲かせる椿は、春には無くてはならない花です。
そういえば、大和に春を呼ぶお水取りの行が行われる二月堂を飾るのも"糊こぼし"と呼ばれる椿でした。こちらは本物の花ではなく造花ですけれど。僧侶たちによって手作りされた椿は風格と雅味があり、本物の椿の枝に挿されて堂内を荘厳します。14日間、練行衆の行を間近に見守った和紙で作られた椿の花は灯明の煤で侘びた風情となり、一層魅力的です。
大和の三名椿のひとつはこの「糊こぼし」。開山堂にある糊こぼしと呼ばれる椿は、赤い花に白い斑が入っているのですが、これがちょうど糊を花の上にこぼしたようだというところからの名付けです。お水取りの頃はまだ咲いていないところから、造花が作られるようになったとか。
もう一つは伝香寺の「武士(もののふ)椿」別名「散り椿」。椿は花首から落ちますが、武士は首を落とすことを嫌い、椿の花は飾らなかったようです。この散り椿は花を落とすのではなく、山茶花のように散るのです。ここから「武士椿」の名が生まれました。鑑真和上の弟子である思托によって開かれた律宗寺院ですが、戦国時代の武将筒井順慶の菩提を弔うために再興されたといいますから、やはり武家ゆかりの花が植えられたのでしょうか。
三つ目の椿は白毫寺の「五色椿」。一本の古椿に赤、斑入り、白、など幾種類もの椿が咲きます。五つの色の椿ではなく、赤と白の取り合わせがいろいろということです。天智天皇の皇子である志貴親王の離宮跡に建てられたという古寺は見晴らしがすばらしいお寺で、秋には萩が咲き誇ります。
この他、大和郡山には椿寿庵、桜井には椿山があり、とりどり椿が大和の春を彩るのです。
古事記編纂から1300年を迎える奈良では各地でさまざまな催しが企画されているようです。その古事記の中にも椿は出てきます。
聖帝として知られる仁徳天皇はある時岡の上から国見をしました。すると家々のどこからも煙があがっていないのを訝って聞くと、税が重くて人々は竈にくべる薪も焚く米も無いからだと知らされます。そこで天皇は無税にします。宮殿の補修もできず、粗末な食で3年過ごした後、再び国見をするとどの家からも煙が立っており、天皇は民の幸せを喜んだそうです。そんな事から聖帝と呼ばれる天皇にまつわる話の中に椿が出てきます。「葉の広い美しい椿、その花のように照り輝いていらっしゃる、その葉のように力を広げられている大君様」と称えているのです。
雄略天皇のところでは、采女のふとした失敗を見とがめた天皇はその采女を剣で刺そうとしますが、采女が素晴らしい歌を奉ったために許します。騒ぎが落ち着いて后は「葉の広い神の降る椿の木 その葉のように広く国を治め、その花のように照り輝いていらっしゃる日御子さま」と歌っています。神が降る椿は輝く日御子の象徴だったようです。霊力の宿る美しい椿は人々の勇気を呼び、励ましてきました。
せめて椿の一枝を飾って、本当の春の訪れを待ちましょうか。