今年6月に「奈良県の魚」が選定されました。これは平成26年(2014)に奈良県で「豊かな海づくり大会」が開かれるのをきっかけに県を象徴する魚を決めたものです。
海のない奈良で豊かな海と?との疑問も出そうですね。それに「豊かな海づくり大会」って何?という方も多いのではないでしょうか。
「豊かな海づくり大会」は昭和56年からはじまりました。四方を海に囲まれた日本では、古代から海の幸は命をつなぐための大切な場、身近な食糧調達の場です。魚、貝、海藻など海の幸の種類や調理法の豊かさでは世界の筆頭でしょう。安全で安心、そい美味しい水産食料を確保するため、そのための水産資源の保護管理を推進しようという目的で制定されました。全国漁業組合連合会漁政国際部と都道府県の大会実行委員会の主催で農林水産省が後援しています。
毎年開かれる大会には天皇皇后両陛下のご臨席が慣例となっており、全国植樹祭、国民体育大会と共に皇室三大行事のひとつです。海がないせいでしょうか、これまで「豊かな海づくり大会」のことが広く県内に伝えられることがありませんでしたが、平成19年に滋賀県、平成22年には岐阜県という海のない県でも開かれ、今年の沖縄県、来年の熊本県に続いて、奈良県でも開かれることとなりました。
そこで県の魚ということになったのです。奈良県では春頃から各地で県民のアンケートをとり、それらの集計結果をもとに専門委員会での検討の結果「金魚」「鮎」「アマゴ」の3種類が決定しました。
見て、釣って、食べて美味しいと三拍子そろった決定が大会を盛り上げてくれることでしょう。金魚は全国的にも有名だが、大和郡山市に限定しているのではとの意見もあったようですが、全国からみれば市町村の違いより知名度の高い魚の方が認知してもらいやすいということになったそうです。これはもっともなことですね。鮎は長良川の鵜飼いが良く知られていますが、奈良県では吉野川の鮎。ことに桜鮎と呼ばれるのは奈良だけ。アマゴは奥吉野の清流で獲れて、これもまた美味です。アンケートでは柿の葉寿司に使われている鯖の名前もあったそうですが、基本的に奈良県で獲れないものは残念ながら選定外となりました。個人的には、奈良は日本のふるさとですから、「小鮒」はどうだろうと思いました。奈良県のどの川でも「小鮒」は見られるといいような環境づくりをするのも、と思いましたけれど…。
魚は不飽和脂肪酸やカルシウムなどの栄養素にも恵まれ“頭がよくなる”ともいわれます。日本の食文化を支えてきた魚、見直すきっかけになるといいですね。
奈良県には海がありませんから、心理的に遠い存在です。高波注意報も関係ないし、津波だってこない、と直接の関係は無いように見えます。でも、海と川、川と森は深くつながっていることがわかってきました。奈良県の川は吉野川・紀ノ川水系、大和川水系、淀川水系につながっています。吉野川は日本有数の降雨地帯である大台ケ原に湧き出た小さな流れが始まりです。いくつもの小さなせせらぎを集めて吉野川となり、和歌山県に入ると紀ノ川と名前を変えて太平洋へとそそぎます。豊かな森は潤沢な水を蓄えて、たくさんの命を育みます。その山々は昔から神仏の宿る山として信仰を集め、大切に守られてきました。その限りなく豊潤な母なる森から流れる水が清ければこそ、海もまた豊な命を育むのです。
山を痛めると海も痛む、そんな当たり前のことに気づくのに、ずいぶん時間がかかりました。今、少しずつ山の手入れもされるようになってきたとききます。地球の命はみんなどこかでつながっていて、一つと断つとそのひずみが必ず思わぬところから返ってくると分かりました。
東日本の大震災では人間にとって人とのつながりがどれだけ大切かを知ったのでした。ロンドンオリンピックでもチームワークの勝利が多くの人を力づけてくれたのは記憶に新しいところです。地球上の命もみんな連携しているのですから、ちいさくても「ここ」を守ることが全体を守ることになっていくのですね。
豊な海を守るには清らかな川を守らなければならないし、川のためには、森を、森のためには空気をまもることになっていきます。奈良県の魚からいろいろ考えさせられました。
海のない県ならではの素晴らしい大会になるといいですね。
奈良県の魚からの連想で水です。ある日照りの年、飛鳥から天理への田んぼや畑を通り、水は大丈夫ですか?と農作業をする人に聞くと「吉野川分水があるから大丈夫」といわれました。良く耳にする吉野川分水とはどんなものでしょう。
奈良県は、南部の降水量と比べ、大和平野地域(奈良盆地)の降水量は少なく、昔から
「大和豊年米食わず」といわれたそうです。
これは、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年であり、他の地方が豊作であれば大和は干ばつに苦しむという、大和平野の農業用水の水不足を表した言葉と言われてきました。そのため、古代から人々は、ため池を造るなど様々な工夫をしてきました。
讃岐地方のため池と同じですね。
また、「隠し井戸とハネツルベ」を設置していたといいます。普段はふたをして土をかぶせて置き、水不足になるとふたを開けハネツルベをつけて水をくんだのです。
葛城古道を歩くと田んぼの中に番水の時計が立っています。長閑な田園風景を一層長閑に見せてくれるように思っていたら、田んぼこれは水をきっかりと分けるため。少しでも違うと流血さわぎになるほど命がけのものだったそうです。そして、高鴨神社の鈴鹿宮司は「うちの境内の鐘も田んぼの水を分けるために鳴らしていました。一分でも遅れると大変なことになるのです」と話しておられました。「米一升、水一升」の時代が長く続いたのです。
でも、山ひとつ越えると、全国有数の降水量である大台ヶ原を源流とする吉野川(和歌山県になると紀の川)が流れているのです。奈良県の水は和歌山県へ流れ、大和平野の農民は、何とかその水が流れないかと考えていました。吉野川からの分水計画は、江戸初期に高橋佐助により提案され、寛政年間には実地調査もされ、さらに明治政府も現地調査を実施していました。奈良県の熱望はしかしなかなか実りませんでした。和歌山県としてみれば、大雨の時は下流域で氾濫し、日照りの時は平野部を十分に潤すだけの水量ではないというのが言い分です。水害だけを押し付けられるというのでした。ここまでの調査も夢と消え、大和平野の人々にとっての夢はさらに遠くなってしまったのです。
そこで奈良県では、さらに大きなため池を4つ造りました。白川ため池(大正15年〜昭和6年)、倉橋ため池(昭和14年〜昭和32年)、斑鳩ため池(昭和16年〜昭和22年)、高山ため池(昭和24年〜昭和38年)です。
これらのため池は、今もそれぞれの地域の農業に役立っています。
終戦後、国土復興と食糧増産は国家にとって焦眉の急の事業となりました。再び、吉野川分水の話が持ち上がりました。昭和22年、国土復興計画の一つとして、十津川、紀の川の水資源開発が緒につきます。昭和25年、元京都祇園演舞場(プルニエ)で、奈良と和歌山両県の事業実施への協定が成立しました。実に400年を掛けた悲願成就の瞬間です。
協定成立が祇園演舞場であったというのも今からみると何やらレトロな時代感です。そしてこの協定は「プルニエ協定」と愛称で呼ばれています。
昭和62年、用水路約340qを含む全ての麹が完了し、「奈良は吉野川分水があるから大丈夫」と豊な実りをもたらしているのです。秋の実りの時、稲刈りや果物の収穫の時はちょっとこの分水のこと、思い出してみてください。