今年の春から秋にかけて、NHKの朝のドラマが人気でした。戦前から戦後にかけて精一杯女医として生きる梅ちゃん先生が主人公。ちょっと頼りない梅ちゃん先生ですが、その人柄に惹きつけられた方も多かったようで、視聴率もずいぶん高かったとか。
その梅ちゃん先生、自分の名前にずっとコンプレックスを抱いていたという設定でした。松子、竹男、梅子の三兄弟の中で梅子は松竹梅の一番下、と思っていました。「お寿司屋さんでも梅は一番安い」って。ある時、家族がそろっている時、梅子は自分の名前についての不満を話します。すると父はびっくりして、「話していなかったか?松竹梅は歳寒の三友からとったもので、どれが一番という話ではない」と答え、梅子はやっと自分の名前の由来を知ったのでした。
歳寒の三友とは、もともと中国の宋時代に始まった文人画で好まれた画題の一つでした。他の樹木が葉を落とす厳しい寒さの中で松と竹は緑を絶やさず、梅は凛として花を咲かせることから、三つの朋友。厳寒の冬に例えて艱難辛苦の時代であっても境遇に打ち勝ち、自分らしく生き抜くという意味だったのです。梅ちゃんのお父さんは戦中の辛い時代の中でも三人の子供が時代に流されず、しっかりと生き抜いて欲しい、そんな願いを込めたのでしょうね。
松竹梅には清廉潔白、孤高な品格、節操を象徴しているといいます。風雪に耐えて一年中緑を絶やさず、品格のある枝ぶりを見せる松の持久力、重たい雪をかぶりながら、折れることなくしなやかに雪を弾く竹の力、百花に先がけて花を咲かせ、馥郁と香る梅の豊かさを文人たちは自分たちの生き方としたのです。そうそう、竹には節があり、その節を曲げないことも魅力だったようです。困難なじだい、逆境にあってもそれに耐える意志の強さとしなやかさ、そして豊さを失わないというのは中国の文人ならずとも見習いたいものです。
宋時代といえば日本では女流文学が花開いた平安時代。貴族の間で特に好まれたのは松だったとか。常緑の葉とその姿の良さから不老長寿を象徴する縁起のよいものととらえられていたようです。竹が好まれたのは室町時代といわれます。南北朝分裂の時代を経て、室町幕府3代将軍足利義満の頃。1392年にようやく南北両朝は合一し、文化の中心は再び京都へ戻りました。義満は京都の北山に山荘として鹿苑寺(金閣寺)を建てました。8代将軍の足利義政は茶道、書道、唐物を愛で、文化が大きく花開きました。義政の山荘である慈照寺(銀閣寺)が東山にあったことから、この時代の文化を東山文化とも言われています。歴代の足利将軍は禅宗に帰依し、京都を中心に禅宗寺院が隆盛し、そこから造園、文学、茶道など、様々な文化が生まれました。能もこの時代に観阿弥・世阿弥により完成されたものです。こういう時代背景を考えると竹が好まれたのも分かる気がしてきます。
梅は万葉集にもたくさん詠まれていて大変な人気だったようですが、これは珍しい異国の花として一部の貴族が愛したもの。民間に広く流行したのは町民文化が花咲いた江戸時代といわれます。
日本では中国での本来の意味は薄れ、お祝い事の象徴となった松竹梅。中国の風土で培われてきた考えは、穏やかな気候風土と人間関係の中で日本風になったのでしょうか。
歳寒三友の語源は論語です。まず歳寒。「子日歳寒後知松柏之後凋也」(歳寒くして然るにのち、松柏の凋むに後れることを知る)=厳しい寒さの中でも松の木は葉を落とすことがないことを知ると書かれています。つまり、冬が近づく頃になって初めて、松や桧などの常緑樹が葉を落としていないことに気づくのだといいます。夏の間、木々がみんな緑の時は気づかないけれど、冬になったはじめて気づく。つまり、平和で穏やかな時は分からないけれど、何かことがあった時に人間も君子か小人かが分かるというのでしょう。
三友は「益者三友、損者三友」( えきしゃさんゆう、そんしゃさんゆう)=自分の為になる友人には三種類あり、損をする友人も三種類ある。正直な友、誠実な友、博識な友は良き友人。不正直な友、不誠実な友、口先のうまい友では自分が損をするというのです。
たしかに人当りはういいけれど、誠実ではない人や口先ばかりの人ではその時は気分もいいでしょうが、ここ一番の力にはなってくれるかどうか。その見極めは大変難しい気がします。
12月に竹としたのは格別の理由があるわけではありません。松がお正月、梅が2月ですから竹が12月。
奈良県で竹といえばまずは生駒市高山町の竹林園。平成元年に開かれた園内には竹林の中に茶室や茶筌の資料館などがあります。ここは全国シェア90%を誇る茶筌の里です。茶道の発達と共に道具もさまざまに作られたり、唐物といわれるように輸入されたりしていきますが、茶筌もそのひとつ。わび茶の創始者といわれる村田珠光と鷹山城主の弟である民部丞入道宗砌(そうぜい)によって創作されたと伝えられているのです。それまでは竹を割ったささらのようなものでお茶を点てていたようです。村田珠光はお茶を通して親しかった宗砌に相談します。山間に密集していた細く質の堅い淡竹を加工して茶筌を作り上げたと言われています。後土御門院に献上したところ、その精巧な出来栄えを誉め「高穂」(たかほ)の銘を下さったのでした。珠光、宗砌は感激し、以後、この地を高山と改めました。高山氏はその後、戦に負け落城しますが、有力な家臣は秘伝であった茶筌の技法を授けられ、茶筅師となりました。近年までその技法は一子相伝、厳しく守られてきたのです。
茶筌はどの流派でも必ず必要な道具です。極端にいえば、抹茶と茶筅さえあればどんな器でもお茶は点てることができます。千家十職にも属さず、茶会記に作者の名を記すこともないのが茶筌。なくてはならないものでありながら、ひっそりと作り続けられてきた茶筌の姿は茶道の姿そのものともいえるのではないでしょうか。茶筌は消耗品です。客のために新しいものを用意されますから、古いものは残っていません。作り手はただ一人の客のために手を尽くし、心を込めて作るのだといいます。ただ一回のためにと作られた茶筌は千回の使用にも耐えるのです。
これこそが、茶の心、真髄だと思うのは私ひとりでしょうか。高山では冬、上質の竹が乾燥されます。その風景は高山ならではの詩情がありますから、ぜひ一度たずねてみてください。
竹の風景でユニークなのが奈良国立博物館を春日大社参道へと抜けたあたりにあるむくろじゅの大木の洞から竹が伸びているのです。木の中をぐんぐんと伸びて、見上げるほどの高さからまるでむくろじゅの一部のように竹が生えているのです。これは、鹿が筍の時に食べてしまうのを木の中で育ったものだけが守られたからだそうです。竹に木を継いだといいますが、これは木から竹が生えています。一見の価値ありですよ。
全国に名松があり、震災では一本松が有名になりました。静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原など一本の松や群生の松があります。松には神性を感じるのか、羽衣伝説も多いようです。
奈良県の松といえばやはり影向の松でしょうか。春日大社一の鳥居からすぐのところに竹矢来で囲まれた松の木があります。まだ若い木でひょろりとした目立たない松です。この松はでも特別の松として大切にされていますが、なぜならこの松に神様が降りてこられるから。神様の依代なのです。そして春日大明神が翁の姿で万歳楽を舞われたとも伝えられる由緒のある松であり場所なのです。
12月17日に行われる春日大社「おん祭」。大和の一年をしめくくるお祭りとしてしられていますが、ひとつのハイライトに「松の下の儀」があります。時代行列が華々しく大路を練り歩き、この松の下を通る時には猿楽、田楽、細男(せいのお)、倍従(べいじゅう)といった芸能集団はそれぞれの芸能の一節や所定の舞を演じてからでないと御旅所へは入れません。それほど意味深い松なのです。ちなみに、どこの能舞台にも背景の鏡板には松が描かれていますが、それはこの松だといいます。若い松の根本に切株がありますが、これが先代の松。きっと素晴らしい枝振りの老松だったのでしょう。
梅はもろもろの花に先がけて咲きますから、花の兄、春告げ草、匂草、香栄草、好文木とも呼ばれるそうです。好文木というのは晋の武帝が「文を好めばすなわち開き、学を廃すればすなわち開けず」といった故事からの名付けだそうです。学者として知られる菅原道真が好んだのも梅。道真を祀った天満宮のご紋も梅ですね。福岡の太宰府天満宮には飛梅が今も花を咲かせますが、学問好きの道真が流されるのであれば、梅の木も共にというので梅が飛んで行ったとの伝説が残されています。社殿の右の梅の木はもう何代目かの木でしょうが、大切にされています。
奈良県の梅といえば、西吉野の賀名生梅林、月ヶ瀬梅林、広橋梅林が有名です。賀名生梅林は足利尊氏に追われた後醍醐天皇が村の豪族であった堀家に滞在した場所。門、母屋とも茅葺の重厚な屋敷で室町時代の面影を濃く残しています。向かいの山一面が梅林。歴史散歩と観梅の二つの楽しみがあります。
月ヶ瀬梅林も後醍醐天皇とのゆかりが伝えられています。紅染めの触媒として欠かせないう烏梅の作り方は後醍醐天皇の笠置落ちの折、側女が村人に親切にしてもらったお礼にと製法を伝授したといわれています。大変貴重なものとしてこの村の特産品となったとおいうことです。ここには松尾芭蕉、頼山陽といった文人墨客が多く訪れたことでも知られていますが中でも富岡鉄斎は月ヶ瀬の風景を好んで描き、たくさんの作品を残しています。
奈良市内の便利な場所で梅が美しいのは大和文華館。ここの梅林は梅の実を目的にはしていないので色とりどり。濃い赤や薄い紅、白などうっとりしてしまいます。美術品の鑑賞の興奮をゆっくり解いてくれる、嬉しい場所です。
御所市高天には「鴬宿梅」。その昔、鑑真和上がこのあたりの寺に来ていた時、弟子の若い僧が亡くなりました。この梅の木の所に来ると鶯が鳴いています。鑑真にとっては弟子が鶯となって来たとしか思えません。
「初春のあしたごとには来たれども 会わでぞ帰るもとの住処へ」
と歌ったとか。それでこの梅の木は鴬宿梅と呼ばれるようになったとか。
さて、春を探しにどこへでかけましょう。