今年の夏も異常な暑さが続きました。節電を心がけながら、熱中症にも気を付けなければならないという、大変な事態です。「夕涼みよくぞ男に生まれけり」などと呑気なことは言っていられません。うっかり外で夕涼みなどしていたら、脱水症状で倒れるかも知れない、そんな時代です。
男性用の日傘が昨年の二倍とか。もっともなことだと思います。英国紳士がいつでも雨傘を持っていたように、日本の紳士は日傘、そんな時代がくるのでしょうか。今年はいつにもまして秋が待たれます。
ここ数年、日本の伝統が少しずつ見直されている、そんな気がしますがいかがでしょうか。「日本の七十二候を楽しむ」という本が静かなブームとなっているようです。
太古の昔から人々は太陽や月の動きで季節を知り、年月を数えてきました。地球が太陽の周りを一周する長さを一年とするのが太陽暦で、月が新月から新月になるまでを一か月とするのが太陰暦。いわゆる旧暦というのは太陽暦と太陰暦を組み合わせた太陰太陽暦のことで明治に改暦されるまでは長く人々の暮らしを支えてきました。
季節は一年を四つに分けた四季のほかに二十四で区切った二十四節気があり、さらに七十二等分した七十二候が定められ、細やかな季節の移ろいを味わっていたのです。
すっかり太陽暦になじんでしまい、旧暦そのものの存在も案外遠いものです。節電などで少し自然を感じるとそこには豊な世界も広がっています。ちょっと寄り添ってみませんか。
9月1日は二百十日。これは雑節のひとつで立春から数えて210日目のこと。この頃に台風が来ると、農作物に被害が出ます。暦では注意を呼び掛けているのです。台風のことは昔“野分”と呼ばれました。枕草子では
「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」(200段)とその情趣を細々と記しています。
つまり、台風の翌日はしみじみとした趣があり面白いわ。立蔀や透垣などが飛んだりして散らかっているし、庭の植え込みだって気の毒なくらい。大きな木が倒れ、枝も吹き折られたのが、萩や女郎花などの上に横倒しになっているのにも驚いてしまうわよ。
格子の枠には木の葉をわざわざしたのかしらと思うくらい、一つずつに入れるなんて荒々しい風の仕業とは思えないじゃないの。
と書き、女性が庭の様子を見ようと膝で進んできたところに風が吹いて髪を乱しているのなんて素敵だわ。と続きます。
9月7日が白露で初候を「草露白し」次候は「鶺鴒(せきれい)鳴く」末候が「玄鳥(つばめ)去る」。9日は重陽で菊の節句です。23日の秋分になるといよいよ暑さ寒さも彼岸までといわれるように秋めいてきます。そして秋分の初候は「雷乃声を収む」。これは夕立に伴う雷もいよいよ出番がなくなる頃というわけです。積乱雲から鰯雲や箒雲のように雲も高いところでうっすらと描かれます。次候が「蟄(すごもりの)虫戸を坏(とざ)す」そろそろ冬眠の支度というわけです。末候は「水始めて涸る」。田んぼから水が抜かれ、稲刈りが近づきます。
10月8日は寒露。初候は「鴻雁(がん)来る」、「菊花開く」、「蟋蟀(きりぎりす)戸にあり」となります。虫の音を楽しむのは日本人特有の感性だとか。雑音とは聞かないのはそれだけ自然と近いからでしょうか。
23日は霜降。初候は「霜始めて降る」、「霎(しぐれ)時施す」、そして「楓蔦黄なり」と季節は確実に移ります。
11月になると7日が立冬。いよいよ冬の気配が感じられます。初候は「山茶(つばき)始めて開く」。つばきとありますが、山茶花のこと。茶道では炉が開かれます。次候は「地始めて凍る」、末候では「金盞香(きんせんこば)し」金盞とは金色の杯のことで水仙の別名です。
22日になると小雪。初候は「虹蔵(にじかく)れて見えず」。次候は「朔風葉(さくふうは)を払う」。冷たい北風が落葉樹の葉を吹き飛ばしてしまいます。
季節の声に耳をそばだててみませんか。
風
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる」
(古今集一六九)
秋の風といえばまずは藤原敏行の歌が思い出されます。ほんとうに暑いさなかにふと感じる秋の気配をみごとに表しています。
さて、万葉集ではどんな秋風がうたわれているのでしょうか。
「采女の袖吹き返す明日香風
都を遠みいたずらに吹く」
志貴皇子(巻1-51)
訳:華やかな采女たちの袖をなびかせていた明日香の風よ。今は都も遠くなって空しくわびしく吹きすぎる。
何月の歌なのか知りませんが、明日香の都も藤原京へと移り、すっかりさびれてしまった。都は遠くなってしまったと思いながらため息のように歌ったのでしょう。命が芽吹く春ではなく、静かな秋の頃ではないでしょうか。
「今よりは秋風寒くふきなむを
いかにかひとり長き夜を寝む」
大伴家持(巻3-462)
訳:これからは秋風が吹いて寒くなるのにどうやって長い秋の夜をすごしたらいいのやら。
天平11年(739)に亡くなった女性を悲しんで詠んだ歌です。ただでさえ長い秋の夜に温もりあえる人がいなくなって、さあ、どうしてこの秋を過ごしたらいいものやら。こんな風に懐かしんで歌を作ってくれる人がいるって幸せなことですね。千数百年経っても、人々はこの歌をたどってその人を想うのですから。
「君待つと我が恋いをれば我が宿の
簾動かし秋風の吹く」
額田王(巻4-488)
訳:あなたが来ないかしらと恋しく思っていると、家の簾が揺れてあなただわって喜んだのに。なあんだ、秋の風だったのね。
これは額田王が天智天皇のことを思って詠んだ歌とか。恋多き女性の揺れる心が可愛くもあり、したたかでもありますねえ。
なぜか巻8-1606にも同じ歌が載っているのですが不思議です。
「秋立ちて幾日もあらねばこの寝
ぬる朝明の風は手本に寒しも」
安貴王(あきのおおきみ)(巻8-1555)
訳:秋になって何日もたっていないというのに、寝て起きてみると朝の風は手元に寒いほど。ついこの間までは暑かったのに。
立秋を過ぎて数日後のことでしょう。新暦ではまだ夏の盛りである8月上旬に立秋となり、秋とは名ばかりですが、旧暦では訳ひと月遅れますから、こういうこともありそうです。
「秋山の木の葉もいまだもみたね
今朝吹く風は霜もおきぬべく」
不明(巻10-2232)
訳:「もみたねば」の「もみつ」は紅葉するという意味で紅葉しないうちにということになります。これをふまえると秋山の木々の葉もまだ紅葉しないうちに、今朝吹いてくる風は霜がおりるのかと思うほどにつめたいということになります。
季節の変わり目とは本当に突然にやってきて驚かされます。昨日までは半そででも扱ったのに、一晩でぶるっとなるほどの寒い日、そんな経験、ありませんか。ずっとエアコンを入れたままでは味わえない感覚ですね。昔の人々は自然の移り変わりにそれは敏感だったのでしょう。そして、そこに人の綾を重ねたのでした。
「よしゑやし恋ひじとすれど秋風の
寒く吹く夜は君をしぞ思ふ」
不明(巻10-2301)
訳:「よしゑやし」はもういいわよ、くらいの意味ですがニュアンスとしては切り捨てているのではなく、相手を許す感じが含まれるとか。そうなるともういいわよ、恋なんてもうしないわ。そう思っていたけどこんな風に秋風なんか吹いてくると何だかあなたのことが思われてくるわ。一緒に寝ていると温かだったわ。妻問い婚の時代ですから、これは待つ方、つまり女性の歌ではないでしょうか。もうあんな奴、きても入れてなんかやらないから、と強気だったのに、秋になると人恋しくなるのですね、昔も今も。
「玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ね
たらちねの母が問はさば風と申さむ」
古歌集より(巻10-2364)
訳:玉垂とは玉を緒つまり糸に通すことから小簾(をす)の小(を)を導くための言葉です。小簾のすきまから入ってきてね、いとしいあなた。お母さんがどうしたのなんて聞いたら「風が揺らしたのよ」って答えるから。だからきっとよ、約束してね。大胆な娘の恋人を誘う歌です。親の目をごまかす恋は万葉の昔からのことだったのですね。恋人たちはいつも忍ぶ恋にかきたてられてきたようです。
歌をみると人間の心は少しも変わっていないことに気づきます。現代のように携帯やメールでやりとりできるのはさて、幸せなのかそれとも…。
秋の風に耳をそばだてながら、季節の変化を楽しむゆとりを持っていたいものですね。