私が子どもの頃ですから、どれくらい昔のことでしょう。夏休みに祖母の家へ行くのが楽しみでした。日ごろの規律から逃れた開放感が今でも懐かしく思い出されます。でも、寝転がって本を読んだり、多少の寝坊が許される代わり、手伝いもさせられました。庭掃き、廊下の拭き掃除は子どもの仕事です。そして、雑巾をいい加減に絞ったり、バケツの回りに水を飛ばすと必ず厳しく叱られました。水をいい加減に扱うと水ばちが当たり、きっと水で苦労するというのです。掃除を終えた水は庭に撒きにいくことになっているのですが、ちょっと目を盗んで流してしまうとなぜかすぐに見つかってお小言です。水に不自由する暮らしを考えろとうんざりするほど聞かされました。
「もったいない」という言葉が見直されていますが昔の人は水一滴にも心をかけていたのでしょうか。どこにでも水道が整備され、蛇口をひねるとふんだんに水が使える暮らしの中では、ついつい水の有難さを忘れてしまいます。時々テレビなどで草原や砂漠に生きる人々の水の扱いを見ては、水に恵まれた国に生きる幸せを感じるのですが、日々の実践となると心もとない限りです。
6月は雨の季節。うっとうしいという気持ちが先立ちますが、この水があればこそ秋の豊かな実りも得られるのですね。洗濯は乾かない、足元は濡れると愚痴をこぼしそうになった時、ふと祖母の「水ばち」という言葉が甦ります。拭き掃除が遠いことになって、雨の季節になると思い出す、私にとっては季語のような存在です。
※写真の器は岡田親彦さんの作。あーとさろん宮崎に展示。 |
先日、ギャラリーで見つけたガラスの器には一滴の水の雫が美しく光っていました。ぬくもりのあるガラスの葉先にまるで本物のような水一滴。こんな器があれば、きっと水への扱いも変わりそうです。涼やかなお菓子、野菜のおひたし、小魚の南蛮漬け…、さて何を盛り付けましょうか。水の季節に「水ばち」を思い出させてくれる器に出会うとは、水を大切にしない私への警鐘なのかも知れません。