子どもの頃の夏になると部屋には蚊帳が張られました。部屋の中にもうひとつ部屋ができたようで、とても楽しみなものでした。蚊帳へ入る時は、身をかがめ、蚊帳の裾をぱたぱたと払いながら入るのです。つまり、蚊を中へ入れないための蚊帳作法といったところでしょうか。
夏の風物詩だった蚊帳もこのところ見かけることもありません。蚊帳が何のことだか知らない人だって多いことでしょうね。クーラーも網戸もなかった頃、蚊帳は必需品でした。夜も戸を開け放って自然の風を通しつつ過ごしていたのですから、余程のどかな時代だったようです。蚊帳には淡い青から白へのぼかし染めや緑色に赤い縁というものが多かったように記憶していますが、どうだったのでしょう。中に入ると海の底にでもいるような感じがしたものです。
中世からの面影を残す奈良町には、今も蚊帳屋さんが残っています。お店には蚊帳生地を使った暖簾や布きん、コースター、テーブルクロスなどと共に蚊帳が吊られていました。
薄青から白へのぼかし染めの蚊帳は、何か現代アートのようにも見えました。美術館に吊って中に作品を並べたり、パフォーマンスしたりといったこともできそう、なんて思ってしまうのは蚊帳の美しさのせいかしら、それとも蚊帳の存在が遠くなったせいかしら。麻の固く、粗い感触は夏には気持ちのいいものです。テーブルクロスにすると透ける感じが涼しげで、2色を組み合わせると思いがけない演出ができそう。
奈良はかつて蚊帳の一大生産地だったといいます。奈良町では道を歩くと織機の音が聞こえていたとか。今でも蚊帳は生産されているようですが、多くはクーラーを不要とする東北や昔を懐かしむ人々の道楽、高級旅館のひとつのインテリアとして使われてとか。蚊帳を吊って懐かしむほどの余裕はありませんが、せめてこの夏、この肌触りを身近に置いておきたいと思いました。