ところで、奈良の八重桜にはいかにも奈良らしい物語が伝えられています。
時は一条天皇の頃ですから絢爛たる平安文化が咲き誇った時代のことです。奈良興福寺に美しい八重桜が咲いたと評判になります。一条帝の中宮彰子は、ぜひ京の都にと所望しました。彰子は権勢並ぶものなき関白藤原道長の娘。興福寺は藤原氏の氏寺です。願って叶わないはずはありません。早速桜は掘り起こされ、京都へと運ばれますが、途中で法師たちが追いかけてきて行く手を阻みました。
「この桜は命にかえても渡さぬ」というのです。この悶着はすぐ宮中に知らされました。彰子は「荒くれだと思っていた奈良の法師たちに桜を愛でる心があったとは」と法師を咎めるどころか心栄えを褒め、桜は元の場所へ戻されたのです。しかも、花が咲くと毎年、七日七晩の宿直である花守を伊賀の花垣の庄から遣わしたのです。
桜の花が咲くと興福寺からはお礼に一枝の八重桜が届けられました。王朝貴族が居並ぶ中、桜の歌を詠むようにと促されて伊勢大輔は「いにしへの奈良の都の八重桜・・・」の歌だったのです。“その昔、奈良の都に咲いていたという八重桜が今日は宮中に咲いている”という歌はきっとやんやの喝采を受けたことでしょう。“いにしへ”というのは奈良時代、聖武天皇へ花垣の庄から八重桜が献上されたという故事をふまえてのことです。彰子が花守をここの里人を遣わしたのもこうした由来があったから。
奈良の八重桜は奈良に咲く八重桜のことではなく、固有の品種です。全ての桜が散り果てた頃、葉陰にひっそりと紅色の小さな蕾をつけます。少女のように俯きながら花を解いていき、開く頃には薄紅色、散り際に再び紅を濃くして散っていきます。上品で可憐な花は桜の中でも特別の美しさです。多くの歌に歌われた八重桜は芭蕉も見たのでしょうか。
芭蕉は伊賀出身ですから、この花垣の庄を訪れて「ひと里はみな花守の子孫かや」の句を残しています。かつて与野の庄と呼ばれていた里は今花垣の庄と呼ばれ、奈良の八重桜を霊木として大切に守っているそうです。
現在、奈良の八重桜は奈良県庁横の駐車場や奈良国立博物館庭園、朱雀門、奈良公園、転害門、大和文華館などで見ることができます。
奈良時代、平安時代、そして江戸時代と奈良の八重桜は人々の心を捉え、歌に俳句に詠まれてきたのですね。今年はきっと4月下旬頃に咲くのではないでしょうか。ぜひ由緒正しき桜を見に出かけましょう。