東大寺二月堂のザクロ |
鑑真は、唐時代の高僧です。揚州大明寺の律僧として戒を授けられた者は4万人に及ぶといわれた戒律の第一人者でした。天平5年、聖武天皇の命を受けた遣唐使の懇請を受けて来日を決意したようです。遣唐使は長屋王から預かった袈裟千枚を贈ったといわれています。その袈裟には「山川異域 風月同天」という詩が刺繍されていたと伝えられています。「山や川は国によって形も異なるけれど、佛教を求める心は遠い日本でも同じだ」という意味でしょうか。鑑真はこんな皇子がいる日本なら、ぜひ行きたいと思ったと伝えられています。また、当時僧でありながら、道や橋を作り、民衆の中で仏道を広めようとした行基が菩薩の生まれ変わりだという話も伝え聞き、会いたいと願ったのも来日への動機となったようです。こうした深い思いによって来日を決意した鑑真は5度の失敗にも諦めず、苦難に耐えて海を渡ったのです。鑑真一行が日本に着いたのは十二年後のこと。鑑真の愛弟子二人は没し、自身も失明してしまいました。初志を貫き、鹿児島に漂着したのは天平勝宝5年(753)、鑑真は66歳になっていました。
鑑真があと2年早く来日していたら、東大寺大仏殿の開眼大導師の役は間違いなく鑑真が果たしていたことでしょう。鑑真は東大寺で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇に戒を授けた後、500人もの僧にも受戒しました。東大寺戒壇院を建てた後に西ノ京の新田部親王の旧宅地を与えられて、唐招提寺を開き、学僧たちに戒律を講じたのです。鑑真は天平宝字7年(763)5月6日、結跏趺坐のまま76歳の波乱に満ちた一生を終えました。
尊像に向かいながら、芭蕉には涙が見えたのでしょうか。深い崇敬の思いに頭を垂れる芭蕉の姿が見えるようです。外は明るい日差しが溢れ、緑が薫る季節。しかし、お堂の中には千年の時間が漂っていて、鑑真も生きているように思われたのかも知れません。
鑑真の像は、開山堂に安置されていましたが、昭和39年に旧一乗院の遺構を移した御影堂に移されました。鑑真を取り囲む襖には東山魁夷画伯による海の絵が描かれ、波の音が堂内に響くようです。東山画伯は、うちわまきの絵うちわにエッフェル塔の絵に「風月同天」の言葉を添えて奉納されたそうです。「若葉して」の句は、開山堂で詠んだということで、開山堂の石段のそばに句碑が立っています。
この句の前には「潅仏の日に生まれあふ鹿の子哉」が記されています。潅仏会は4月8日ですが、旧暦ですから、ちょうど若葉の頃。奈良公園のあたりで生まれたばかりの鹿の子を目にしたのですね。若葉の季節は新しい生命が躍動する季節でもあるようです。
※ |
5月19日は中興の祖である覚盛上人の威徳をしのんで「うちわまき」が行われ、1年の息災を守るといわれる「うちわ」をいただこうと大勢の人が集まります。 |
※ |
6月5日から7日は開山忌として御影堂が開かれ、鑑真和上像も公開されます。 |