季語という季節を象徴する美しい言葉を作り上げた俳句。俳聖として近世文学に大きな足跡を残した松尾芭蕉は生涯で5回、奈良を訪れています。芭蕉の目に奈良はどのように映ったのでしょうか。季節を追いながら芭蕉の句をみていきましょう。
梅雨が明けるといよいよ夏。雨雲に覆われていた空が抜け、青い空に入道雲が現れ、太陽は朝から照りつけます。町には日なたと日陰のコントラスト。盆地の夏は殊の外、辛いものです。払っても、払っても纏わりつくような暑気にはぐったりしてしまいます。でも、団扇、風鈴、打ち水と昔からの夏の知恵も生かしながら、乗り切っていきたいものですね。
芭蕉45歳の頃、当麻町竹之内あたりで詠んだ句です。歩くしか交通手段のなかった時代、汗を流しながらの旅はいかにも辛そうです。それだけにひと休みした木陰のそばには青田が広がり、田を潤して流れる水音が“楽しさや”と聞こえたのでしょう。クーラーの効いた車からでは捉えることのできない音ですね。 青田とは苗が育って一面が青々とした緑に茂った田のことです。田植えの頃の植田で見えていたような水面はもう見えなくなりました。昔は田植えが今より遅く、土用の頃だったようですが、今は7月になると青田になりますね。青田を吹き渡る風は「青田風」、その風によって揺れる稲の葉は「青田波」、青田の中を通る道は「青田道」。芭蕉が歩いたのもそんな青田道の小さな木陰ではなかったでしょうか。 学生時代、電車通学していたのですが真夏の午後のことでつい居眠り。ふっと涼しくなった風に目を覚ますと乗り過ごしていました。普通電車にはクーラーがなかった時代のことです。風が涼しくなったのは田圃の中を走っていたからでした。街中とは違った匂いと涼しさだったことを今でもはっきり思い出すことができます。地球温暖化など話題にもならなかったのどかな時代のこと。開発が遅れていたといわれていた田園は、貴重な環境保護地だったのですね。青田のあぜ道を歩くと苗の匂いがたちのぼり、豊かな緑は夏空の下に輝くような美しさでした。 山口誓子の句に「一点の偽りもなく青田あり」という句があります。一点の偽りもないという表現が青田にはぴったりです。照りつける太陽の下、ぐんぐんと音さえ聞こえそうな勢いで伸びる若い稲。ここは迷いも偽りもない世界だというのですね。作者の心も真っ直ぐ俳句へ向かって、潔いほど。 同じ青田でも俣野佐和子は「別れけり青田の風に髪打たせ」と詠みます。きらきら輝くような青田波の中に髪を打たせながら人との別れに立ち尽くしています。青田の明るさが一層別れを際立たせるようです。どんな季節にもどんな風景にも、人間世界は悲喜こもごも。だからこそ美しい風景や季節にはせめて敏感に生きていたいものですね。